「南国の楽園・バリ島」で起きた悲劇――島民たちが取った「予想外の行動」とは バリ島侵攻・1906年

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 アジア屈指のリゾート地として、日本でも高い人気を誇るバリ島。しかしその「南国の楽園」で、数百人規模ともいわれる集団自決事件が起きたことを知っている人は、そう多くはないだろう。

 戦後の国際政治学をリードした高坂正堯氏(1934~1996年)も、バリ島の集団自決事件を知ったとき、大きなショックを受けたという。高坂氏の「幻の名講演」を初めて書籍化した新刊『歴史としての二十世紀』(新潮選書)から、一部を再編集して紹介する。

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 皆さんには、すでにバリ島に行かれた方や、いつか行ってみたいという人もいるかもしれません。旅案内も兼ねて、この若者にも人気の観光地についてすこし話します。

 それは1906年のことでした。バリ島はインドネシア、昔の「蘭領東インド」と呼ばれた地域の一部でしたが、日露戦争が起こる前までは完全な植民地統治下にはなく、現地の王様に限定された実権があるという奇妙な政治的状況が続いていました。そして、1904~06年にかけて、オランダは完全植民地化しました。
 
 スペイン、オランダ、イギリスと覇権国家は移り変わり、征服されずにいる土地もかなり限られてきたのですが、当時もヨーロッパ帝国主義に勢いがあったことは間違いなく、その最後の犠牲になったのがバリ島でした。

難破船の荷物は誰のものか

 さて、オランダがバリ島を完全に植民地化するきっかけになったのが難破問題です。あの付近は大小様々な島々がひしめき暗礁も多く、熟練した航海士がいても、船がよく難破するのですが、バリ島古来の慣習によると、難破船の荷物はそれが打ち上げられた海岸の住民の持ち物ということになっていました。

 ところが、当時のヨーロッパの海洋法、つまり、当時の国際法の常識はこれと異なっていました。たとえば、誰も注目しなかったので、今は思い出す人もいませんが、日本がイギリスと最初に締結した通商条約に「難破船の荷物はイギリスに帰属する」という条項があります。全体で7条か、8条しかない二国間の取り決めですが、難破船の積み荷がどちらに所属するか明確な記述があることは、当時、これが国際問題だったことがわかります。
 
 私はこのことを昔から知っていたわけではなく、去年末、バリでこの紛争について調べて、初めて難破船の所有物の帰属問題について知ったわけです。その後、再び、日英通商条約を読む機会があり、条文に当たって、「なるほど、こういうことだったのか」と当時の国際情勢を確認することになったわけです。

 歴史的背景を知らずに無味乾燥な条約を読んでも、頭には入っていきません。大事な内容かどうかわかるのは、読む人次第です。たまたまバリ島に行くことがなかったら、日英通商条約の最初の方に難破船の持ち物問題があったことも思い出せなかったでしょう。

島民たちが取った異様な行動

 さて、バリ島でオランダに対する紛争が起きて、結果、オランダはバリ島を締め上げて支配を広げます。その過程で戦争も起こりますが、戦争より大きなインパクトを与えたのは、1906年に起こった集団自殺事件です。それは、今もバリ島の中心地で、空港もあるデンパサールで起きました。
 
 その街の市場の前の広場で、白むくの衣装の王族がオランダ軍の駐屯地の100メートル手前まで行進し、乗っていた輿から降りた王を僧侶が剣で刺して殺し、それを発端に参列者たちも多くが自殺しました。それが嫌だった人は、オランダ軍に丸腰で突撃をして小銃や大砲の弾に当たって死ぬという出来事が起こったのです。
 
 デンパサールから15キロほど北東方向にあるクルンクンでも、ゲリラ戦が繰り広げられますが、こちらも集団自殺で抵抗が終わりました。これらは西欧諸国による植民地主義的な軍事侵攻でも最後期の出来事でしたが、もたらされた悲劇はそれまでと変わりませんでした。その後、しばらくして各地の民族主義者たちが立ち上がり、多くの犠牲者を出しながら、植民地主義はアジアやアフリカから後退していくことになります。
 
 この事件はオランダだけでなく世界に大きな衝撃を与えました。キリスト教を信仰しているヨーロッパ人にとって自殺は忌避すべき行為です。それが集団自殺というさらに異様な事態に直面して、その裏になにか理由があると彼らは考えたわけです。そして、それまでの東インド統治の強権的な植民地支配をここで行うと大変なことになるのではないかと危惧し、オランダ総督府は、バリ島にだけは現地習俗、文化、宗教を極力保存する政策を敷くことにします。
 
 その結果、「南国の楽園」とまではいかないにしても、バリ島は伝統的な風習と昔らしい雰囲気を残した場所として生き残ることができました。多くの専門家が指摘する通り、集団自殺事件は島古来の社会システムを守る防衛的役割を果たしました。

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 以上のように、高坂氏の新刊『歴史としての二十世紀』には、西欧文明とそれ以外の文明が遭遇した時に起きた、いくつもの激しい争いが描かれている。もちろん日本も例外ではない。薩英戦争から日露戦争、そして2度にわたる世界大戦を戦うなかで、多くの悲劇があった。
 
 そして現在も、なお世界各地で国家や民族の衝突が繰り返されている。あらためて前世紀に行われた戦争と和解の歴史を振り返ることが必要とされているのかもしれない。

※本記事は、『歴史としての二十世紀』(新潮選書)に基づいて構成したものです。

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