「私とあなたは同じアジア人だ」――イギリス軍下のインド兵が抑留日本軍兵士に見せた意外な「親日感情」
西洋帝国主義による植民地支配からの“アジアの解放”を謳った「大東亜戦争」の終結から80年。現在では、日本によるアジアへの侵略戦争だったという理解が相場となり、「大東亜戦争」という呼称もあまり使われない。
しかし、当然ながら個々の日本軍兵士のレベルでは、あの戦争の位置づけは様々であった。たとえば、敗戦後にインドネシアに抑留された陸軍主計中尉・大庭定男さんは、イギリス軍下のインド兵から「私は、あなた方と同じアジア人だ。必ずインドは独立します」と言われるなどして、「大東亜戦争は決して無意義ではなかった」と日記に書き残している。
このような日本軍人らの日記類を読み解き、南方抑留の歴史的背景と実態を明らかにした『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』(林英一著、新潮選書)が刊行された。同書から一部を再編集して、当時のインド兵が見せていた意外な親日感情を紹介する。
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インドネシアでの労働は「祖国に帰還する第一歩」
大庭がイギリス軍の輸送機でタンジュン・プリオク作業隊(1945年10月編成)に送られたのは1946年6月11日のことであった。「今ジャワにおいて一番ひどいといわれるこのタンジョンの使役(「労役」「当番」などを意味する軍隊用語)」(1946年6月12日)に臨む彼の心は、「タンジョンは我々が過去を反省し未来への出発の思索をなすところである」(1946年6月15日)と意外に前向きだった。
大庭が高木伸雄のペンネームでタンジュン・プリオク作業隊の雑誌『たんじょん』第4号(1946年10月10日発行、筆者所蔵)に投稿、掲載された「冬の夜の花」という随想にも、そうした当時の心理を垣間見ることができる。
作業隊にきて間もなくの頃に「吾等タンジヨンに於て何を求むべきや」と話し合った際、修吉という日本兵は「タンジヨンは吾々が祖国に帰還する第一歩である。吾々が祖国に帰還するのは祖国再建の為めである。吾々はこのタンジヨンを祖国再建の出発基点となさなければならない。タンジヨンの生活は之あつてこそ初めてその意義があるのではなからうか」といい、そのためにはまず戦時中の「退嬰的、淫蕩的、消極的な気分」、つまり酒色におぼれて後ろ向きな雰囲気を反省しなくてはならないと説く。
そして「吾々は当然の帰結として大な反省と再鍛錬が必要であつたのである。天はこの機会をタンジヨンに於て与へて呉れた。日々の重労働、悪い給養、之等の嘗(かつ)て夢想だにしなかつた生活の中に不撓不屈の精神と肉体を作り出すのである。驕奢な身心を鍛へ直すのである。辛い時にも苦しい時にも吾々はじつと耐へ且つ反省して行かう。重労働と深刻なる反省とが並行するところ、吾々は生れ変つた新しい自己を見出し得るのであらう」と意気込む。
ここで修吉が戦時中の日本軍の行動の「当然の帰結」として抑留を正当なものであるとしている点に注目したい。南方では抑留の「被害者」である日本兵は、占領の「加害者」でもあり、それがために抑留を全否定できなかった。そのため日本兵たちは抑留生活が「祖国再建」につながると考えることで意味を見出そうとしていた。
酷使される作業隊
さて、タンジュン・プリオク作業隊で大庭が一週間ほど働いてみた感想は、「ここでは将校も下士官も兵もみな素裸になって泥まみれ、油まみれになって働いている。一分でも三〇秒でも早く仕事を終わりたい、五秒といえども所定の時間以外に労働をしたくない、毛一本といえども所定のもの以外には動かしたくない──これをだれもが考えているのである。犠牲的精神とか軍規、団結とかいうような至上命令的なものは殆ど影をひそめその代わりに人と人との情けというものがこれに代わり作業を促進せしめている」(1046年6月16日)というものであり、その重労働ぶりが窺い知れる。
終戦後に日本海軍が中心になって邦人帰還のための船舶の改造・艤装・修理、補給運輸、通信連絡事務などを行うために組織したジャカルタ海上輸送部にいた、第二南遣艦隊の木ノ下甫参謀は、イギリス軍が日本兵を使役したのは、インドネシア軍との衝突によって労働力が不足しただけでなく、彼らが戦争の勝者の優越感を満たすための報復措置であったとして、戦犯裁判に備え、白人捕虜が斬首されたかを確認するため、外国人墓地で屍体を発掘する作業では、屍臭が身体にしみ込み、食事時に嘔吐を催したという例を挙げている。
第一六軍司令部参謀部別班の大岡義男陸軍軍曹も、連合軍命令でタンジュン・プリオクの埠頭に勤務したときに、自動小銃をもったイギリス兵が監視するなか、朝6時から夕方6時まで、一汁一菜の昼食時間20分を挟んで休みなく鉄道レールの運搬や荷役作業に追われ、「戦勝国が敗戦国の兵に対する報復的制裁以外の何ものでもなかった」と感じている。
インド兵の親日感情
大庭のいた現場では、肉体労働も1カ月が経つと、作業隊の面々の疲労は蓄積し、怪我人が増えた。半年後には「ルーティンワーク」のためか、やはり疲労が目立つようになった。
こうした日々のなかで大庭の心をなぐさめてくれたのは「スコール〔引用者注:激しい強風とにわか雨〕の音、ショボショボ降る雨の音」や故国の家族からの手紙である。
なお大庭が父親からの手紙を初めて受け取ったのは1946年11月17日。終戦から2年が経過しても内地からの手紙を受け取った者は全体の半分ぐらいで、マラヤ北部やビルマでは3割にも満たなかったというから、比較的早い方であるといえるだろう。
この他にも、大庭はイギリス軍のなかでインド兵が日本の復興を願っていると聞き及び、「大東亜戦争は決して無意義ではなかった」(1946年8月15日)と感じている。こうしたインド兵が日本兵に親切だったという話は他の回想記でもよく出てくる。
たとえば、大庭と同じバンドンの独立混成第二七旅団司令部に勤務し、大庭いわく「非常に真面目な人」だった小野盛陸軍軍曹は、チマヒでイギリス軍の使役に参加した際に、インド国民軍(略称INA)出身と思しきインド人中尉がイギリス人将校に内緒で、コーヒーで歓待してくれ、「私は、あなた方と同じアジア人だ。必ずインドは独立します」と言っていたと回想している。
たしかに日本軍の同盟軍としてインパール作戦に参戦したインド国民軍の兵士が親日感情を持っていたとしても不思議ではない。
日本政府はガンディー、ネルーに次ぐインド国民会議派の有力指導者であったスバース・チャンドラ・ボースを1943年6月にベルリンから招致すると、同年10月に彼を国家主席兼インド国民軍最高司令官とする自由インド仮政府をシンガポールで樹立し、共通の敵であるイギリス打倒を目指したが、あえなく失敗した。
終戦後、スバース・チャンドラ・ボースは台北の飛行場で事故に遭い、命を落とし、元インド国民軍の幹部3人はイギリスによる裁判にかけられたが、民族運動の力によって解放された。そして1947年8月15日、インドはパキスタンと分離独立する。
こうした経緯に鑑みると、先のインド人中尉が日本兵に好意的であったのは、イギリス軍に対する面従腹背の姿勢の現われであったと考えられる。イギリス軍将校宿舎で料理当番だったある日本兵は、彼が作った料理にインド人の当番兵が唾を吐きかけて給仕しているのを見ている。
※本記事は、林英一『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』(新潮選書)を再編集したものです。












