「党にマイナスでも国が第一」と腹をくくり… 首相に“担がれた”村山富市氏、本当の思い【追悼】
物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は10月17日に亡くなった村山富市氏を取り上げる。
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「党にマイナスでも国が第一」
巡り合わせの人生――。村山富市氏がよく口にした言葉だ。1994年、対立を続けてきた自民党と社会党が手を携え、新党さきがけも加わった「自社さ」連立政権で、社会党委員長の村山氏は首相に担がれた。
政治解説者の篠原文也氏は振り返る。
「自民党の目的は政権復帰。社会党が利用されているともちろん理解していた。望まずとも首相になった以上、党にマイナスでも国が第一だと腹をくくっていた」
自衛隊合憲、日米安保条約の堅持、日の丸・君が代の容認へと社会党の根幹を成す路線を大転換した。
「二枚舌はいかんと変化を悔いていなかった。(元首相の)宮澤喜一さんに連絡を取りたいと相談されたことがある。秘書に頼めば済むでしょうと返事すると、党から派遣された秘書だからねと言われた。党内事情にも腐心していた」(篠原氏)
社会党が激変した発端は、93年、8党派連立の非自民細川護煕政権の発足である。
「社会党は最大勢力でありながら、連立の実権を握る小沢一郎氏が社会党に無理難題を突き付けた。連立は政党それぞれが責任を担い、立場の違いを尊重し、議論を尽くして全体の合意を形成するものと村山さんは考えていた。このままでは小沢氏に党を壊されると危機感を持ち、翌94年に連立を離れました」(篠原氏)
党を保つために小沢氏から離れ自民党と組んだのだ。
党内では地味な存在
24年、大分市生まれ。父は漁師。苦学して明治大学専門部政治経済科を卒業。大分に戻り漁師の組合づくりなどに関わる。社会党に入るがイデオロギーへの関心はなかった。大分市議、県議を経て、72年の衆院選で初当選。年金や社会保障問題に長く携わるも、党内で地味な存在だった。
「社会新報」の編集長、田中稔氏は思い返す。
「例えば福祉政策の実現のために自民党も納得できるよう折り合いをつけ、調整する実務家です。(91年から)国対委員長を務め、各党との関係を築いた。政治の原点は信義と捉えていた」
首相就任から半年余り後、阪神・淡路大震災が発生。
「対応が遅く危機管理の認識が甘いと非難を浴びた。すぐに首相が行けば警備でかえって迷惑をかけるとの考えでした。自民党の小里貞利氏を震災担当大臣に据え、最後は自分が責任を持つと明言し、官僚との連携も築いていました」(田中氏)
東日本大震災時の民主党の対応と比較され、ようやく評価されるに至った。
村山内閣で防衛庁長官を務めた衛藤征士郎氏は言う。
「国政に出る前から大分で村山さんの姿を知っています。約束が具体的で実行に移す。実績をアピールしません。生活に根差した感覚が一貫していた」
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