白いスポーツカーに乗った“画家”が「モデルになってくれませんか」…女性8人を乱暴して殺害「昭和46年のシリアルキラー」大久保清の素顔

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窓から妙義山が

 黒沢警部と、同じく大久保の取り調べを担当した落合貞夫巡査部長(同)はかつて、「週刊新潮」のインタビューに応じている。落合氏は、こう語っている。

〈「大久保は感情の起伏が激しかった。机を叩いたり、茶碗を投げてみたり、カッとなって虚勢を張るかと思うと、“俺はもうお終いなんだ”と泣きを入れてくる。最後は“勝手にすればいいじゃないか”というのが奴の口癖でしたね」〉(2005年6月9日号)

 大久保はその後の調べで、他の殺人をほのめかしたり、黙秘したり、雑談だけに応じるなど、事件の核心についてはなかなか口を割らなかった。それでもB子さんについては殺害を認めるが、それで一気にほかの行方不明者も……とはならなかった。まさに一進一退の攻防だった。

 このころ、新聞・テレビは事件を「第二の小平義雄事件」と騒ぎ始めた。このシリーズで紹介したが(2025年8月11日配信)、終戦を挟む昭和20年から21年にかけて「安いコメを買えるところを知っている」などと甘言を用いて10人の女性を暴行・殺害した事件である。世間は捜査の行方に注目するが、大久保はまたもや供述を二転三転させる。全国的な注目を集めた事件だけに、途中で大久保の供述が途絶えると、内部から「取調官を変えた方がいい」という意見が出て新聞やテレビも騒ぎ出すようになった。

 しかし、黒沢警部には秘策があった。7月18日、大久保の身柄は前橋署から松井田署に移された。

〈「留置場の窓から被害者が埋められた妙義山が見えるわけです。朝と晩にはお寺の鐘が聞こえる。心境が変わったのか、ばたばたと証言するようになった。高崎の工業団地の造成地とか、想像もつかないようなところへ埋めたと話すのですが、掘ると次々に遺体が出てきたのです」(黒沢氏)〉(同)

「できるだけ深く掘り、50年くらいは見つからないように、あいだに石を並べて埋めた」

「殺したときに身につけていた靴とか金属のあるものは、金属探知機で発見されると思ったので、遺体とは別の場所に埋めた」

 全面自供と事件解決へいたる過程を、警察庁資料はこうつづる。

〈取調官相互の一糸乱れぬチームワークにより、完全犯罪を自負していた被疑者を全面自供に追い込み、順次8人の女性死体を発掘して遺族に引き渡し、捜査期間100日間、捜査延人員21500人に及ぶ犯罪史上類のない冷酷無残な大量殺人事件は終結した〉

 大久保は昭和48年2月22日に死刑判決、控訴はせず確定した。同51年1月22日、東京拘置所で死刑が執行された。

【第1回は「母親からは『ボクちゃん』と呼ばれて溺愛…わずか2カ月で“女性8人を殺害”した『大久保清』の異常な欲望」家出人捜索から始まった昭和最大の凶悪事件の幕開けはどのようなものだったのか?】

デイリー新潮編集部

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