白いスポーツカーに乗った“画家”が「モデルになってくれませんか」…女性8人を乱暴して殺害「昭和46年のシリアルキラー」大久保清の素顔
大久保VS群馬県警捜査一課
〈列車に乗るはずの女が自分に同行して、公園のベンチで夜の九時までも楽しく語らっているのだから、これはもうやらせるという暗黙の了解が成立したことである。だから自分としては行動を起こしたのである。なのに女はいざというときになっていやがった。だからおれは少し手荒にせざるをえなかった。これは明らかに相手側の約束違反である〉(前掲書)
こんな「自己正当化の論理」がまかり通るわけはないのだが、大久保は警察、検察、そして裁判所に対して主張した。
「俺の言い分は、全部無視しやがって……」
この時に抱いた、捜査機関への恨みを決して忘れていなかったのでる。
大久保の調べが進まない中、5月21日になって事件は大きく動くことになる。榛名町の山林から、3月31日に行方不明となっていた女子高生B子さん(17)の遺体が発見された。発見者は県立公園管理人。大久保が逮捕され、大々的に報道される中で、気になったことがあった。
大久保が逮捕される6日前。現場となった山林に白いクーペがとまり、スコップを手にした男と女がいた。二人が立ち去ったあとで見に行くと、直径1メートルほどの土盛りがあった。大久保の逮捕から1週間、どうしてもあの土盛りが気になり、近所の人と掘り返しに出かけ、遺体を発見した。のちの捜査で、大久保は遺棄場所が気になり、女性を伴って、土をかけ直しにでかけたところを目撃されたのだった。一緒にいた女性は、遺体があることは知らなかったが、一緒に行ったことを証言した。
一方で、群馬県警防犯少年課は、大久保が府中刑務所を出所した3月2日から逮捕される5月14日まで、県内で家出人届が出ている女性のうち、15~16歳から22~23歳で大久保の狙いそうな女性に絞って照会し、22日に7人の行方不明者の公開捜査に踏み切った(うち1人は生存確認)。
大久保清VS群馬県警捜査第一課――未曽有の事件に、群馬県警は総力を挙げて挑む。
捜査本部は報道対策、検死解剖、鑑識、所在不明者追跡など計20の班に分けられた。それぞれ警部が班長につき、8人いる警視が状況をまとめる。特に人員が割かれたのは「捜査」。2人の警視のもと、8班が大久保の足取りや交友関係、裏どり捜査に当たった。11名から40名の班員で構成する中で、警部以下、計4人で編成されたのが「取り調べ担当」である。班長は捜査第一課強行班の黒沢治雄警部(当時)。
〈群馬県警捜査一課の敏腕、鬼刑事の異名があり、吉田六郎同県警本部長も記者団に「うちの切札だから、この人の夜回りだけは遠慮してほしい」と訴え続けるほど〉(『朝日新聞』昭和46年5月7日夕刊)
黒沢警部は逮捕2日目から、大久保の調べに当たっていた。
「俺は人間じゃない。爬虫類だ。俺の殺人は肉親、社会、警察に対する挑戦だ」
「仮出所して更生するために帰宅したが、妻子と一緒に生活する望みが絶たれ、将来に希望を持つことができなくなった。(過去の事件で)俺の言い分を取り上げなかった警察、検察、裁判所が憎かった」
鬼刑事と言われる黒沢警部だが、大久保の言い分を聞くことに終始した。やがて、大久保は少しずつ、心の内を明かすようになっていったという。そして逮捕から14日後の5月26日、「取調官に俺の心情を理解してもらった」と、ついにA子さんの殺害、遺体遺棄を認める供述を始める。そして27日早朝、供述通り、妙義山のふもとにある桑畑から遺体を発見した。
しかし、捜査本部が沸き立つことはなかった。B子さんと6人の行方不明者はどうなるのか……。
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