母親からは「ボクちゃん」と呼ばれて溺愛…わずか2カ月で“女性8人を殺害”した「大久保清」の異常な欲望

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「ボクちゃん」と呼ばれて

 大久保清は昭和10年1月、高崎市で生まれた。8人きょうだい(うち男女2人は出生後すぐに死亡)の三男で、幼少期から逮捕されるまで、母親は「ボクちゃん」と呼んでいた。幼少期の大久保は、可愛らしい顔立ちが評判だった。というのも、祖母がロシア人との間に産んだのが大久保の母親で、その息子である本人も青みを帯びた瞳に、色白で目鼻立ちがくっきりとしていた。

〈母親は幼いころから目のぱっちりした清をでき愛、近所の人は「大久保のボクさん」といっていた。ことばづかいもていねいで毎朝「おはようございます」と近くの人にあいさつを交わしながら小学校に通ったという。しかし学校を一歩離れれば、他人の家のマキを盗んだり便所のくみとり口のフタを開けて他人の家に侵入したこともあった。また六年生のときにはすでに女の子にいたずらして騒がれ、近所の人たちは「清さんには近づかないよう」と注意しあうなど、性格の二重性が芽ばえていたとみる人もいる〉(『朝日新聞』昭和46年5月27日付夕刊)

 父親は女癖が悪く、妻以外の女性に子供を産ませていたという。定時制商業高校を中退した大久保は、電気関係の仕事に就きたいと上京、都内の電気店に住み込みで働くようになったが、近所の銭湯で女湯を2回、覗いたことが発覚し、解雇された。

 テレビ技術者を目指し、神田の電気学校へ通うと言って実家から送金させた金で娼家通いを繰り返す。やがてなじみの娼婦とトラブルを起こし、群馬に戻ってラジオの修理販売業を始める一方で、群馬大学の購買部で買った学帽を被り「法政大学の学生」と偽ってガールハントを繰り返していた。商売はうまくいっておらず、稼ぎがないので娼婦を相手にできない。自然と、一般女性へと目が向いたのだった。

 しかし、ここでトラブルが頻発するようになる。

〈昭和三十年十一月二十一日、前橋地方裁判所刑事第一部(略)判決抜粋
 被告人は昭和三十年七月十一日午後六時三十分頃、伊勢崎市(略)Z子(当十七年)に対し道を尋ね、同女が知らない旨答えるや、同女の身辺に付きまとって種々の雑談を仕掛け(略)同女の唇や乳房に接吻したところ、同女が峻拒(注・きっぱりと断ること)する態度を示さないので情交を求めたところ、拒絶された為、強いて同女を(略)〉(『週刊新潮』昭和46年6月12日号)

 婦女暴行未遂で検挙されたが、初犯だったこともあり懲役1年6月、執行猶予3年の判決となった。しかし、この判決からわずか1か月後の昭和30年12月26日、大久保は再び婦女暴行事件を起こす。

〈定時制高校生(十七)に対し、大学生であるかの如く装って自己の操縦する軽自動二輪車の荷掛けに乗せ、(略)松林内に連れ込み、地上に並んで腰を降し、互に雑談中、午後二時五十分頃、突然同女の……〉(同)

 これも未遂だったが、前回の裁判から1か月ということもあり、懲役2年の実刑判決を受ける。昭和34年12月15日、松本刑務所を出所。保護観察処分中の昭和35年4月16日、前橋市内に住む女性大生Y子さん(20)に暴行をはたらく。学生運動の活動家を装い、自宅に連れ込んで暴行しようとしたものの未遂に終わる。この事件は示談が成立したので、立件されていない。大久保は昭和37年5月5日に結婚するが、捜査報告書によると、

〈結婚後も妻だけにあき足りない異常性欲から、新婚当初から当時計画していた詩集自費出版の仕事にかこつけ、毎晩のように外出して女性を誘っており、そのころ大久保宅には、大久保と結婚を誓ったという女性やその保護者の訪問が再三あり、妻がこれをとがめると、首を絞めつけるなどの乱暴を繰り返していた〉(『連続殺人鬼 大久保清の犯罪』筑波昭著より)

 そして昭和42年6月30日、大久保に言い渡された婦女暴行致傷事件の判決――。

〈かねて顔見知りの短大生(当二〇年)の姿を認め、“送ってあげる”と誘って(略)矢庭に同女に抱きつき、同女が坐っていた同車助手席の背もたれを倒して同女をその場に押し倒し、その身体の上に乗りかかってズロースを脱がせ、同女の反抗を抑圧して強いて同女を……〉(前出『週刊新潮』より)

 犯行日は昭和42年2月24日だった。被害者と面識があったことから大久保はすぐに逮捕され、捜査の過程で前年12月23日に高崎市内の女子高生にも婦女暴行をはたらいていた事実が発覚、この2件と執行猶予中の別件と合わせて懲役4年6月となり、府中刑務所に服役していたのだった。

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