“速すぎて”失格 理不尽な規則に散った「スタートの天才」ジョン・ドラモンドの悲劇(小林信也)
レースは1時間中断
ドラモンドは、アメリカのトップ・スプリンターの一角として10年以上にわたって活躍していた。4×100メートルリレーでは世界陸上で2度、シドニー五輪でも金メダルを獲得している。けれど、個人ではなかなか金メダルに届かなかった。
2002年IAAFグランプリファイナルで優勝を果たした彼は、34歳を迎え、いよいよ人生最後になるかもしれないパリ世界陸上の舞台で、初の頂点を狙っていた。
「スタートの天才」、周囲は彼をそう呼んでいた。驚異的な反応速度の速さがドラモンドの強みだった。その天性が「最後の勝負」を懸けた舞台で自らの首を絞めてしまった。
10分近くたって、ようやく気持ちを切り替えたのか、ドラモンドは深々と頭を下げてトラックを去った。観衆は拍手と歓声でドラモンドをたたえた。歯を食いしばり、懸命に涙をこらえ、首を左右に振って競技場から姿を消そうとした直前、一人のスタッフが後ろから駆けて来て何かを伝えた。するとドラモンドは踵を返し、またトラックに戻った。一緒にフライングを宣告された5レーンのアサファ・パウエル(ジャマイカ)もスタート地点に戻り、いよいよ収拾がつかなくなった。
ドラモンドはもう一度、トラックの上に寝転んだ。近づくテレビカメラに、仰向けのまま「オレは動いていない」「オレは動かない」と繰り返し叫んだ。
結局約1時間レースは中断し、第2組のレースは後回しにされた。ドラモンドは国際陸連から失格処分を受けた。事件後、ドラモンドは競技から引退。個人でのメダル獲得はついに果たせないまま競技を離れた。
大阪で“雪辱”
ドラモンドの抗議を見ながら、私は奇妙なルールの存在にあきれる思いだった。
“世界一速い男”を決める陸上男子100メートルで、“速すぎる男”を失格にする、そんな理不尽な規則があっていいのだろうか。
われわれ一般人からすれば、100メートルを9秒台で走ること自体が“人間の限界を超えている”と感じる。それなのに、スタートの反応速度においては、“常人の計測データ”を基準にルールを決めている。
そのドラモンドが07年の大阪世界陸上にタイソン・ゲイのコーチとして来日。100、200、400メートルリレーの3冠達成の陰の力になった時、パリの雪辱ができたと多くのファンが溜飲を下げた。しかし14年12月、禁止薬物の所持・売買、選手に使用を促したとして8年間の資格停止処分を受けた。悲劇の余波は続いていたのだろうか……。
2022世界陸上オレゴン大会では110メートル障害決勝で地元のデボン・アレン(米)が反応速度0.099秒で失格になった。わずか1000分の1秒速すぎたための非情な宣告。悲劇は、9月13日に開幕する東京世界陸上でも起こる可能性がある。速すぎるゆえの犠牲者が出ないよう祈るばかりだ。
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