“速すぎて”失格 理不尽な規則に散った「スタートの天才」ジョン・ドラモンドの悲劇(小林信也)

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 その事件は2003年の世界陸上で起こった。パリ大会の開幕2日目。男子100メートル2次予選の第2組。1回目のスタートは3レーンのドワイト・トーマス(ジャマイカ)にフライングがあって、やり直しとなった。現在はフライング一発で失格だが、その年は1回目がやり直し、2回目は誰であろうと失格になる決まりだった。

 その2回目。全員が号砲に反応し、奇麗に飛び出したかに見えた。ところが、機械は「フライング」と判定し、選手たちは数メートル走ってすぐ加速をやめた。誰一人、自分が当事者だと認識していない。審判員が後方から札を持って近づき、最初は3レーンのトーマスに赤いカードを突きつけた。が、これは単純な間違いで、すぐ隣のジョン・ドラモンド(米)に失格を宣告し直した。青天のへきれき。ドラモンドは両手を左右に振り、血相を変えて「自分じゃない」と訴えた。そしてスターターを含めた審判団に憤然と歩み寄り「動いていない!」と鋭く叫んだ。それでも審判団の態度は変わらない。それを見てドラモンドは4レーンに戻り、トラックの上に仰向けに寝て抗議の意思を表した。ドラモンドには、ピストルが鳴るより先に飛び出した意識はまったくなかったのだろう。パリ・サンドニのスタジアムが騒然とする中、ドラモンドの体を張った抗議は続いた。

 実況中継の情報によれば、ドラモンドの反応時間が0.052秒と極端に速かった。競技規則で「ピストルが鳴って10分の1秒より速くスタートした選手はフライングと判定する」と決められている。その反応速度は人間の生理的限界を超えている。つまり〈予測で先に動いているからアンフェアだ〉という解釈なのだ。

 この規則を知らない視聴者は、テレビを見ていて不審に思ったに違いない。スロービデオを何度見直しても、ドラモンドは他の選手より先に動いたように見えなかった。ピストルより先に動いたらフライングと思っていた多くのファンは、正式なルールを知って戸惑ったのではないだろうか。

 失格の判定は決して受け入れないとばかり、彼はトラックに寝そべり続けた。

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