「高額ボーナスをもらうために世界記録を1センチずつ更新して…」 棒高跳び選手セルゲイ・ブブカの“貪欲さ”の理由(小林信也)
世界陸上6連覇の偉業を達成し〈鳥人〉と呼ばれたセルゲイ・ブブカが棒高跳びに出会ったのは9歳の時。街のスポーツクラブで棒高跳びの練習を目にしたブブカ少年は、一目で“人が空を飛ぶ光景”に魅了された。
(自分も空を飛びたい)
家の近くで適当な棒を探し、それを両手で握りしめて庭のフェンスに向かって走った。
すぐには跳び越せなかった。何度も挑み、何度も失敗した。それでもブブカはあきらめなかった。やがて、握りしめた棒の反発力をもらって体を浮かせる感覚に気付くと、ブブカの中に成功の予感が芽生えた。それこそがブブカ最初の“覚醒の時”だったに違いない。やみくもに跳ぶのでなく、体を浮かせる感覚を求めて跳んだ9歳のブブカは、ついにそのフェンスを越えた。
〈棒高跳選手セルゲイ・ブブカのマークした初記録は、庭のフェンスである〉と、ブブカは自著『なぜ“ブブカ”はスポーツでもビジネスでも成功し続けるのか』に記している。
まだソ連領だったウクライナ・ドネツクのスポーツクラブで本格的に陸上競技を始めたブブカはコーチの指導に恵まれ、総合的な身体能力を育成するトレーニング・プログラムでその才能を順調に開花させていった。
世界記録を35回も更新
100メートルは10秒2、走り幅跳びは8メートル20、10種競技でも8000点以上、いずれも世界のトップを見据える記録をマークする。陸上にとどまらず、体操など他の競技でも素質の片鱗を見せた。“旧ソ連の育成体制が生み出した最後のサイボーグ”とも呼ばれた。
それでも結局、棒高跳びを専門種目に選んだのは、少年時代の感動体験による必然であり自然な帰結だったのだろう。しかし、他者から見ればその選択は、ブブカの狡猾さとあざとさの象徴と映った。世界記録を屋外で17回、室内で18回、計35回も更新するという陸上競技の他種目ではあり得ない偉業は、驚嘆と同時にやっかみを買った。
何しろ、その壮挙はただの名誉にとどまらない。世界新記録には毎回ボーナスが与えられる契約をブブカは交わしていた。世界記録更新のたびに5万ドルともいわれる高額ボーナスを、ブブカは手にすることができた。そのため、1センチずつしか記録を更新しない。加えて大会主催者からもボーナスを受け取れるよう、ボーナス設定のある海外の大会でしか世界記録に挑戦しない徹底ぶりだった。棒高跳びだからできるその選択はやがて非難の対象にもなった。
ブブカにも事情があった。14歳の時に両親が離婚。母親との生活は余裕がなかった。スポーツの才能を認められたブブカは母親と離れ、ドネツクのクラブに移る。選手としての成功が人生を開く、そういう道をブブカは選んだ。選ばざるを得なかったというべきかもしれない。
1991年東京世界陸上の直前にソビエト連邦の崩壊につながるクーデターが発生。ブブカは真っ先に西側のスポンサーと契約した。それは選手生活を続けるため、そして先行きの見えない祖国ウクライナの未来に少しでも貢献したいという強い使命感からでもあった。
ウクライナ・ルハーンシク出身のブブカにとって、86年チェルノブイリ原発事故は他人事ではなかった。住民の健康被害が案じられる中、検査や対策が進まない現実に怒りを覚えていた。後年、稼いだ賞金から対策資金を寄付している。ブブカの貪欲さは、単に金の亡者でなく、自分の生い立ち、社会の犠牲に対する憤りがあった。
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