母の介護は妻まかせで「プラトニック不倫」に酔ってたら… 聞き間違い?認知症の母からの衝撃の一言
母と同居を始めて
少しずつだが、従業員の待遇も改善したい、働く環境もよくしたいと彼は思うようになっていった。そんな気持ちが従業員に伝わり、会社はなんとか社長がいるころの業績を維持することができた。
3年後にはもうひとり子どもが生まれた。5人家族だが、康太朗さんの母は毎日のようにいたし、従業員も終業後に子どもたちと遊んでくれたり、ときには子守を買って出てくれたりして、会社裏にある自宅はいつも賑やかだった。
「10年前に父が亡くなったとき、『おかあさんにうちに来てもらおう』と燿子はいち早く言ってくれました。母は遠慮していましたが、おかあさんも家族なんだからと燿子に背中を押されたようです」
毎日、息子の家を手伝う生活から同居となり、母はホッとしたのだろう。すっかりなじんで楽しそうに暮らしていた。
「あのころは何の心配もなかった。決して裕福ではなかったけど、僕らも従業員もその家族もとにかく食べてはいける。子ども3人は元気だったし、毎日がめまぐるしく過ぎていきました」
老いる母を見たくない
だがそんな生活は長くは続かない。同居するようになって3年ほどたったころ、母が転んで骨折、入院している間に急速に認知症が進んだ。まだ70代になったばかりだったが、燿子さんは「そういえば少し前から、お義母さんの様子はおかしかった。単に物忘れが多くなったくらいにしか思っていなかった」と言った。
「どうして教えてくれなかったのかと思ったけど、燿子を責めるわけにもいかない。母はリハビリ病院を経て、自宅に戻ってきましたが、なんとか日常生活は送れました。服薬したりデイサービスに通って人と接したりして、進行を食い止めていたんでしょう。燿子はいろいろ勉強して献身的にめんどうを見ていました」
だが康太朗さんは老いていく母を見たくなかった。仕事に精を出すふりをして自然と母と距離を置くようになっていく。
「3年前です、美香と出会ったのは。同業者とのつきあいだとかセミナーだとかいって、仕事を終えてからも出かけることが多かったんですが、それも母から逃げたかっただけ。帰りには結局、ひとりで1杯やって憂さを晴らしていたんですよ」
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