「実は起業家精神に溢れていた」…ビジネスパーソンが読み直すべき「夏目漱石」はなぜ「胃腸」の不調を描いたのか

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繰り返し書いたモチーフ

 作風も活動履歴もバリエーション豊富な漱石だが、どの作品にも繰り返し書いたモチーフがある。それが「胃腸の不調」についてだった。

「バラエティに富んでいる人であるほど、私たちは、その芯にあるものは何だろうかと見極めたくなります。漱石の芯にあったものは何だったかを考えていくと、それは『病』であるというのが私なりの一つの答えとなります。

 最初の小説『吾輩は猫である』から未完となった最後の作品『明暗』まで、漱石作品にはいつも病の話が出てきます。しかも、扱われるのはほとんどが、消化器系の病気です。

 漱石の同時代人である作家・評論家の正宗白鳥は、文学者には『肺病派』と『胃弱派』がいると言いました。肺病派は、喀血などすることもあるところからドラマチックで、微熱が続く状況が創作の呼び水にもなりロマンチックな傾向を持つ。対して胃弱派は地味で元気がなくて、万事においてぱっとしないと見なしたのです。

 そして、白鳥自身は胃弱派であり、漱石も同系だとします。白鳥は漱石作品をたびたび批判しましたが、胃病で亡くなったことに関しては、大いに同情を示しました」

 実際のところ、漱石が胃弱だったのは周知の事実である。人生を通してたびたび胃腸の不調に悩まされ、療養先の修善寺では、大量の吐血をして意識を失ったこともある。先述の通り、最期は胃潰瘍によって亡くなった。

作品全体を覆う雰囲気に

 漱石にとって胃腸の具合はいつも悩みの種であったから、作品内で言及が多くなるのは道理だ。たとえば『吾輩は猫である』では、冒頭の「一」で、主人公の猫が主人を称してこう語る。

「彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活発な徴候をあらわしている。」

 また、自伝的要素が強いとされる『道草』では、主人公の健三がやはり胃弱として描き出される。

「近頃の健三は頭を余計遣い過ぎる所為か、どうも胃の具合が好くなかった。」
 
 漱石自身が胃弱だったことの小説作品への影響は、モチーフとして登場するだけに留まらない。作品全体を覆う雰囲気にまで及んでいると、阿部教授は見ている。

「胃腸の調子が悪くなるときのことを思い出してみてください。何の理由もなく、雷に打たれたかのように胃腸が痛むということは、少ないものです。たいていの場合は、『調子に乗って焼き肉を食べ過ぎた』『空きっ腹にアイスクリームをドカ食いしたから……』など、自分の過去のおこないに理由があり、後悔の念を伴います。

『あのとき、ああしたから、こうなってしまった』という後悔や罪の意識が付いて回る、それが胃腸的なるものの特徴といえます。漱石作品と照らし合わせれば、どの小説にもそういう場面が出てくるのがわかります。

『こころ』で、先生が延々と過去を語るところなどは代表的な例でしょう。漱石作品では登場人物が、今さらどうしようもないことをクヨクヨ振り返ったり、過去の影に脅かされたりしてばかりいる。そこがいかにも胃弱派らしいところです。

 また漱石は、胃腸的なるものの取り入れ方を、作品ごとにどんどん変えていきました。『吾輩は猫である』では、主人の胃弱をわりとコミカルに扱っています。『胃弱のくせに』となじりながら、主人のパッとしない感じや男らしさに欠けたところを表しているのです。

 これが『明暗』になると、病のことがもうすこし深刻に扱われ、その描写によって作品に重々しい雰囲気が醸し出されています。『明暗』は最晩年の作品ですから、漱石本人の胃の症状がかなり悪くなっていたはずで、身体の不調がそのまま反映されているのでしょう」

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後編【なぜ「ムカつく」は「不快」を意味するようになったのか…病気のデパート「夏目漱石」を通じて「社会の胃腸化」を専門家が説く】では、文学作品のみならず、社会も「胃腸化」しているという阿部教授の鋭い解説をお届けする。

阿部公彦/東京大学文学部教授
1966年生まれ。東京大学文学部卒。ケンブリッジ大学で博士号取得。英米文学研究や文学一般の評論などに取り組む。98年に『荒れ野に行く』で早稲田文学新人賞、2013年に『文学を〈凝視する〉』(岩波書店)でサントリー学芸賞を受賞。ほか、『小説的思考のススメ』(東京大学出版会)、『名作をいじる「らくがき式」で読む最初の1ページ』(立東舎)など著書多数。近著に『事務に踊る人々』(講談社)、『文章は「形」から読む ことばの魔術と出会うために』(集英社新書)など。NHK「100分de名著 夏目漱石スペシャル」にも出演。

山内宏泰/ライター
1972年、愛知県生まれ。美術、写真、教育などを中心に各誌、ネット媒体に執筆。著書に『写真を読む夜』、『大人の教養としてのアート入門』など。

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