「ハイパー・アテンション」から「ディープ・アテンション」へ…“教養”獲得への第一歩は“瞬間的な快楽”からの脱却
教養とはすなわち「コンテクスト把握能力」である――。批評家でメディア史研究者の大澤聡氏はそう語る。しかし、問題なのはその能力を鍛える機会が失われていること。ではどうすれば、そうした仕組みを改めて実装することができるのだろうか。キーポイントは「長さへの耐性」である。【大澤聡/批評家】
(全3回の第3回)
【写真】かつての「教養人」大宅壮一氏 在りし日の貴重なカット
好奇心を飼いならす
「第1回」と「第2回」で言及してきた「コンテクスト把握能力」を手に入れて鍛えあげるための機会がいまは圧倒的に不足しています。コンテクストを欠いても成立するウェルメイドなコンテンツが溢れ、その瞬間その瞬間の快楽を動物的にまったり享受し続けていられる環境がありますから。消費者がどんどん時間性やボリュームに耐えられなくなっているため、コンテクストを必要としない商品ばかりが評価され、大量に流通する。露悪趣味やセンセーショナリズムに傾くのも当然でしょう。刺激だけがすべて。負のスパイラルができあがっています。
英語圏のネット・スラングに「TL;DR」というのがありますよね。「Too Long; Didn't Read.」の略で「長すぎて読んでらんねぇ」くらいの意味です。いまわたしがしているこの話もネット記事にしてはあまりに長すぎます。もはや誰も読んでいないかもしれない……。まさに「長さ」が害悪視される世界で、コンテクストを伝えるのは至難の業です。わが家でも、小学校や幼稚園の子どもたちに、よかれと思って物語性のあるアニメを見せていても、「長いわ!」といわれリモコンを奪われるしまつ……。
「サビ」的なもの以外が無駄と見なされる時代に、反時代的であろうとも長期的な展望をもって、時間やボリュームに必然性を持たせたコンテンツをどれだけ混ぜ込むことができるか、そしてそれを見てもらう環境をどうつくるか。これからの各種サービスにはその面での工夫が求められると思います。
短期的な最適解も重要ですが、そこを狙った商品ばかりではサービス自体は長続きしません。もちろん、短期決戦で焼き畑農業的に転々とするビジネスをよしとする身もふたもない考えがあることもわかってはいるのですが、やはりそれだけでは社会が回らない。
たとえば、YouTube上には子どものセンスや身体感覚に忠実につくられた動画がたくさんありますね。うちの子どもたちもご多分に漏れず、最後まで再生することなく、たいてい途中で別の動画をタップしてしまいます。世界中の子どもたちが言語の壁を越えてそんなふうにタップしまくっているからでしょう、どうということもないチープな動画がおどろくような再生回数を弾き出している。
見はじめたそばから、それはもう古い。画面横にずらずらと別のおすすめ動画のサムネイルが並んでいるから、そちらが気になるのですね。新鮮であり続けることが不可能なインターフェイスになっています。真の快楽主義者は、ただただ快楽に溺れるのではなくて、むしろ、次なる快楽のタネをたえず勤勉にせっせと探索し続ける人間のことなのかもしれません。
人間の生存本能の一部として備わっている「新規性バイアス」そのものを実証してもらっている気持ちで子どもたちを眺めているのですが、情報過多の環境下では、このわたしたち自身の内なる好奇心を上手く飼いならして、ときには大幅に抑制する必要がある。
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