「クイズ王」は現代の教養人か? 学歴を看板に掲げる「人気クイズ番組」が浮かび上がらせた“知識”と“教養”の違い

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教養と教養主義

 一方では、ネット討論番組に代表されるように論破力のある論客が教養人のモデルとされ、他方では、クイズ王に象徴されるように雑学などニッチな知識を大量に持っている人が教養人とされる。パフォーマンスと知識の二極に現代日本の教養のイメージが分岐しています。ずいぶん教養の輪郭は変形しました。

 ここまであえて区別せずに使っていましたが、「教養」と「教養主義」のちがいに目を向けておく必要もありそうです。教養の有無はどんな家庭に生まれ育ったか、どういう教育環境にあったかに左右される部分が大きい。幼少期からコンサートや博物館へ連れて行ってもらった体験だったり、両親やその知人たちの大人っぽい会話が自然と耳に入る環境だったりと、社会学者のピエール・ブルデューのいう広い意味の「文化資本」に依存する部分が大きい。となると、教養は先ほど触れたハイパー・メリトクラシーを構成する要素にあたります。

 かたや、教養主義のほうは、そうした生来的な環境を手にできなかった人が、努力や勤勉さによって教養的なものをどうにか後追いで獲得しようとするモチベーションのことを指します。後天的な学習の足掻きみたいなところもあって、ことの起こりから一種の侮蔑語や自嘲語として使われました。こちらはメリトクラシーを支えるものに近い。もちろん、学校のカリキュラムとはべつのヒドゥン・カリキュラム(裏カリキュラム)的に、成績や業績の評価の外側でこそ機能するものですが、社会的なものであれ人格的なものであれ上昇欲とセットになっていることから考えて、とりあえずはメリトクラシー的といっていい。

 1950年代後半に社会学者の加藤秀俊が指摘した「中間文化」でも、1980年代に理論経済学者の村上泰亮の名づけた「新中間大衆」でも、評論家の山崎正和が70年代を総括して指摘した「柔らかい個人主義」でも、あるいは社会全体を覆っていた「一億総中流幻想」でもいいのですが、世間全体の階層差や格差が表面上はなくなる時代には、この上昇欲が働きません。その先に、2000年代に教育社会学者の竹内洋の指摘した「教養主義の没落」はありました。

 ところが、もしいま教養的なものが漠然と求められて、方法はさておき教養主義なモードがにわかに復活しているのだとすれば、中流幻想が完全に崩れ、文化的な格差のようなものが体感されているからではないでしょうか。となると、問題はそのときに必要なツールをどうやって整備するかです。最後にそのことを考えてみましょう。

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第3回『「ハイパー・アテンション」から「ディープ・アテンション」へ…“教養”獲得への第一歩は“瞬間的な快楽”からの脱却』では教養を得るために何をすべきか。「長さへの耐性」をポイントに大澤氏が語る。

大澤聡
1978年生まれ。批評家、近畿大学文芸学部准教授。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。メディアの歴史やジャーナリズム、文芸に関する論考を各メディアで発表している。著書に『定本 批評メディア論』(岩波現代文庫)、『教養主義のリハビリテーション』(筑摩書房)、編著に『1990年代論』(河出書房新社)、『三木清教養論集』(講談社文芸文庫)などがある。

デイリー新潮編集部

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