「クイズ王」は現代の教養人か? 学歴を看板に掲げる「人気クイズ番組」が浮かび上がらせた“知識”と“教養”の違い

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クイズ王的な教養と総合知識人的な教養

 2010年代後半以降は、有名高校や有名大学の肩書を前面に出したクイズ番組が盛り上がりを見せています。おバカブームの反動ともいえますが、学力の有無だけでなく、コミュ力などなくても圧倒的な知力さえあればそれはそれでよいという点でも、2000年代の流れを反転させた現象といえそうです。競技クイズの世界で限界まで突き詰められた解答テクニックの超絶っぷりを前に、お茶の間の視聴者はただただ圧倒され、出場者たちに尊敬の念を向けます。ときにはそこに教養を見ている。

 あまつさえ、クイズ番組で頭角を現した人たちにワイドショーなどで社会問題について語ることを期待する悲喜劇さえ生じています。もちろん、その人自身が問題なのではありません。世間の過剰な期待のほうに違和感を覚えないでしょうか。かつては個別の現象や事件を俯瞰的に捉えなおして、同時代や歴史の大きな地図のなかに位置づけてくれるような総合的な知識人や批評家のコメントこそを世間は求めていたはずです。

 こっちで起こっていることが、まったく別の場所の出来事とじつは同じ構造を持っていて、それは歴史的にはこういう大きな流れのなかにあるのだといった、目から鱗の批評的な解釈を提示してくれるのですね。それは一問一答式とは異なった思考の働かせ方です。たとえば、社会評論家の大宅壮一はその典型といえるかもしれません。マスコミの人間も含め、人びとはなにか事件が起こるたびに大宅のコメントを聞きたがりました。1970年に亡くなったあともしばらくは、大宅が生きていればどうコメントしただろう……と惜しまれることもしばしば。

 大宅はテレビ放送の草創期に、バカ騒ぎする場面に人気が集まるテレビという新規メディアの普及が「一億白痴化」をもたらすといって、それがのちに「一億総白痴化」と呼び変えられ一種の流行語にもなりました。そんな大宅ものちにテレビ番組のコメンテーター役を積極的に引き受けるようになります。そこであらゆる社会の出来事を論評する。文芸評論家として出発した戦前から、幅広い読者に伝わる的確な造語やキャッチフレーズや比喩を駆使することで頭角を現わした書き手だったのですが、テレビを舞台に社会全体を診断する方面でその能力を発揮する。

現場的教養の効用

 戦後の大宅はジャーナリストと呼ぶしかなくて、なにが専門ということもないんですよね。けれど、戦前に文学についてとことん突き詰めて考えた経験を持っているからこそ、別のジャンルでも構造的に思考することができた。あらゆることに関心をもって総合的にものごとを観察する。拙著『教養主義のリハビリテーション』で「現場的教養」と呼んだのはそういう効用です。

 ひとつ現場を極めたなら、その経験との類推で、あらゆるジャンルに対してそれなりに批評性を発揮できる。それが大宅の場合、時代を掴むいくつもの流行語(口コミ、恐妻、太陽族、駅弁大学……)を生むことにつながった。コンテクスト把握能力の産物です。そうしたことをクイズ的な思考でまかなえるかどうか。

 たくさん知っていることはよいことです。ですが、昔からさんざん指摘されてきたように、知識と教養はちがいます。知識をいくら積分しても教養にはならない。くりかえしになりますが、知識の群れを適切に配置する大きな地図や世界観、もしくは人格や実践との接続、ようするにコンテクストを読めることやそれを自分でつくれることが教養には不可欠となります。ところが、クイズ番組はコンテクスト抜きに、なんの脈絡もなしに、断片化された知識を問う形式にはじめからなっている。

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