堀江淳の大ヒット曲が「水割りをください」から始まる理由…すすきので始めたパブのアルバイトから生まれた名曲をめぐる知られざるエピソードとは

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ポプコンでは奨励賞止まり その先を目指して札幌へ

 高校に入るとすぐ、文通相手に作詞してもらった曲を携え、ヤマハのポピュラーソングコンテスト(ポプコン)にエントリーした。

「まだ文通が続いていてね。君の書いてくれた詩でポプコンに出るよ、と報告もしていました。ただ、全道大会の予選として、苫小牧と室蘭が一緒になった地区大会があるんだけど、そのときは何の賞も取れなかったんだよね」

 地区大会にはその後の2年間で、メンバーを替えて4回出場しその全てで奨励賞を獲得した。だがグランプリには手が届かず、全道大会にも出られずじまいだった。

「当時、歌詞で影響を受けたのは中島みゆきさん。メロディについてはメンバーが2人だった頃のオフコースや、ユーミン(松任谷由実)が好きだったなあ。同級生の進学や就職が決まる中で、なかなか進路が決まらず、親と相談して札幌にあった喫茶店の専門学校に通うことにした。たった3カ月コースの専門学校だったんだけど、札幌まで行ったのにその専門学校は入学式にしか行かなかった。ちゃんと行っときゃコーヒーをうまく淹れられるようになってたかもしれない(笑)」

 もし、堀江のバイト先がパブではなくコーヒー店だったら、かのヒット曲は「メモリーカップ」になっていたかもしれない。

それはともかく、専門学校への“進学”を機に、堀江は札幌のライブハウスに出入りするようになったわけだが、驚いたのはそのクオリティの高さだ。その中には、1979年のポプコンに「時流」で出場し、優秀曲賞を受賞したすずき一平もいた。

「ライブハウスに出るためのオーディションもあったんです。審査員はそこで歌ってた先輩方だったんだけど、僕は最初のオーディションで落とされたのね。そのときはこれが自分の実力か、と思ったんだけど、10年以上経ってから、その先輩たちに『淳、あの時はごめんな。お前が脅威だったから落としたんだよ』って言われてね」

 その後、別のライブハウスに出られることが決まり、店の手伝いも始めた。そのライブハウスで目にしたのがCBSソニーの「第1回SDオーディション」のチラシだった。カセットテープに何曲か入れて応募すると、見事合格。

夜は繁華街・すすきのにあるパブでアルバイトをしていた。15人程度が座れるカウンターの中で、ほぼ女性だった酔客の相手をしていた。そこで、冒頭のエピソードに繋がるわけである。

「1杯目みんなビールを注文するんだけど、当時はウイスキーブームだったの。それで、2杯目からは『水割りをください』って。そのフレーズを何千回と聞いたせいで、頭の中に残ってたんだね」

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 札幌でデビューのきっかけをつかんだ堀江。第2回【元はデビュー曲ではなかった「メモリーグラス」 堀江淳が「僕は歌謡曲の歌手じゃないのに…」という葛藤を乗り越えるまで】では、デビュー曲になった大ヒット曲に対する葛藤などについて語っている。

デイリー新潮編集部

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