「ビートルズ」が“発掘”された日 デビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」の前に出したレコードとは

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 10月5日はザ・ビートルズのデビュー記念日だと言っていいだろう。

 61年前、1962年の10月5日、ビートルズはシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」をイギリスで発売し、レコード・デビューした。

 ただし、熱心なファンならご存知の通り、実はその前に彼らはレコードを出したことがある。そしてそれがきっかけで、彼らはかけがえのない人物とめぐり合うことになるのだ。

 もはや世界史の中の一部となったと言っても過言ではないビートルズ。そのデビュー前夜のエピソードを北中正和著『ビートルズ』をもとに見てみよう(以下は同書から抜粋・再構成したものです)。

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グループ名は「ザ・ビート・ブラザ-ズ」

 ビートルズがイギリスのEMIのパーロフォン・レーベルから発表した公式のデビュー・シングルは1962年10月5日発売の「ラヴ・ミー・ドゥ」です。

 しかしその前に彼らはレコードを1枚出したことがあります。正確には彼ら単独のレコードではなく、トニー・シェリダンの伴奏をつとめた「マイ・ボニー」です。

 トニー・シェリダンはビートルズと同時期にハンブルクのクラブで活動していたイギリスのロックンローラーですが、当時はビートルズよりステージ経験が豊富で、ドイツのレコード会社の目にとまったのです。レコーディングは彼がステージでときおり共演していたビートルズと一緒に行なわれました。

「マイ・ボニー」はドイツでは「セインツ」(「聖者が町にやって来る」)とのカップリングでトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ名義で発売されました。グループ名がちがうのは、ビートルズという名前はドイツ語のあまりかんばしくない俗語にまちがわれやすいから、という理由でした。この曲はドイツではチャートの5位に入るヒットを記録しましたが、イギリスではすぐには発売されませんでした。

 そのレコードにひょんなことから巡り合った人物がリヴァプールにいました。後にビートルズのマネジャーとして彼らを世界一のグループに育てたブライアン・エプスタインです。そのとき彼はリヴァプール一の大手レコード店NEMSを率いる若い経営者でした。

ドイツから取り寄せた25枚

 ブライアンの自伝によると、1961年10月28日、たまたま店番中にレイモンド・ジョーンズという若者がやって来て、ドイツで出たビートルズの「マイ・ボニー」のレコードを注文しました。ビートルズはブライアンの知らないグループで、店に在庫がありませんでした(ブライアン・エプスタイン『ビートルズ神話』P3)。

 入荷したら連絡するからと客を帰した後、「ないレコードはない」ことを店のモットーにしていたブライアンは、レコードを調べて取り寄せようとします。そして地元のグループであることを知って驚きます。

 実は彼が記事を寄稿していた地元の音楽新聞『マージー・ビート』にビートルズは何度も登場していました。単に興味がなかったから気にとめなかったのか、脚色が入っているのか。このあたりの出来事の時系列は関係者の記憶が一致しなくて曖昧です。いずれにせよ、彼は店に来たメンバーの姿を見ていたはずだと店員に言われます。スーツ姿のビジネスマンの彼からすれば、彼らは店で時間をつぶして試聴するだけの無粋な若者たちでしたから、関心を持つこともなかったのでしょう。

 好奇心をかきたてられたブライアンは彼らが出演しているキャヴァーン・クラブに足を運びます。そして彼らに魅了されて挨拶し、「マイ・ボニー」がドイツのポリドールから発売されていることを教わったとされています。彼がドイツから取り寄せた最初の25枚は数時間で売り切れました。売り上げはそれからあっという間にその何倍にも達しました。

仕掛けたのは大プロデューサー

「マイ・ボニー」はイギリス人や英語圏の人なら子供の歌として誰もが知っているスコットランド民謡です。アメリカでは19世紀に「マイ・ボニー」の楽譜が出版され、メロディの親しみやすさから学生や子供たちの愛唱歌として広まっていきました。家族そろって楽しめる愛唱歌的な「マイ・ボニー」は、若者の「反抗の音楽」だったロックンロールのレパートリーにぴったりとは思えませんが、そう考えない人もいました。トニー・シェリダンのレコードを作ったプロデューサーです。

 そのプロデューサーの名前は、ベルト・ケンプフェルト。年配の方なら彼のオーケストラによる「真夜中のブルース」や「星空のブルース」を聞いたことがあるでしょう。いまもイージー・リスニングやムード・ミュージックの通販全集などに欠かせない有名曲です。トランペットをフィーチャーした穏やかなロッカバラードの後者は「ワンダーランド・バイ・ナイト」という英題で61年1月に全米ナンバー・ワン・ヒットを記録。ほぼ同時期に公開された映画『G.I.ブルース』で主演のエルヴィス・プレスリーがうたった「ウドゥン・ハート」も彼の作曲でした。「マイ・ボニー」のレコーディングはそれから約半年後の61年6月ですから、アーティストとして飛ぶ鳥を落とす勢いのプロデューサーによる制作だったわけです。

 ベルト・ケンプフェルトは契約する前に何度かハンブルクのクラブに足を運んで、彼らが「マイ・ボニー」を演奏するのを聞いていました。そしてこの曲がドイツの子供たちが学校で習う英語の歌であったことから、アーティストがドイツで未知の存在でもレコードを売りやすいと考えたのです。

レイ・チャールズへの憧れ

 ではトニー・シェリダンはなぜステージでわざわざその曲をうたっていたのでしょう。それはレイ・チャールズがレコーディングしていたからです。レイは54年の「アイ・ガット・ア・ウーマン」のヒット以来、R&B/ソウルの先駆者として大活躍していました。トニー・シェリダンにとってもビートルズにとっても憧れの歌手です。尊敬するR&B歌手がレコーディングしているなら、畑ちがいの民謡でも話は別というわけです。レイの「マイ・ボニー」はあまりヒットしなかった7インチ・シングルのB面の収録曲でしたが、そんな隠れた作品に目をつけるのは音楽マニアならではです。

 ビートルズ・アーカイヴズの映像にトニー・シェリダンがハンブルクのレーパーバーン地区を半世紀ぶりに再訪して、懐かしそうにパブ「グレーテル&アルフォンス」を紹介する場面が出てきます。その店にはジュークボックスがあり、シュラーガーと呼ばれるドイツの流行歌にまじって、アメリカのロックンロールやR&Bのレコードを聞くことができました。昼間や演奏の休憩時間にミュージシャンたちは楽屋がわりのその店に集い、音楽の情報やアイデアを交換していました。

 レイ・チャールズの「マイ・ボニー」は、ニューオーリンズR&B的なリズムをまじえたビッグ・バンド・サウンドで演奏されていました。彼は自伝でこの曲について「私が生涯聴き続けてきたメロディーで、自分流に作り替えられるかどうかやってみたかった作品だ」と語っていますが(『わが心のジョージア レイ・チャールズ物語』P183)、レイレッツのコーラスとかけあうレイの歌声は、当時の他のロックンロールの作品からすると、ずいぶん大人っぽく聞こえます。

ドラムはピート・ベスト

 トニー・シェリダンのレコードは、それとはちがって1番をゆっくりうたうトニーにビートルズがドゥワップ風のコーラスをつけるところからはじまります。2番では転調してテンポが速まり、歌声がロックンロール風にかん高くなります。ブリング・バック……というくりかえしの部分の背後でジョージ・ハリスンがリード・ギターを弾いています。トニーに合わせてコーラスをつけたり叫び声をあげたりしているのはたぶんポールでしょう。間奏のギター・ソロはジョージではなく、トニー自身が弾いています。ベースに持ち替えたばかりのポールと、バス・ドラムなしのピート・ベストがノリのいいリズムを刻んでいます。

 ジョンやジョージは後にこのレコードがそれほど気に入っていないと発言していますが、自分たちのレコードでなかったからでしょう。粗削りな力強さのある演奏と歌は、61年の時点のイギリスのロックンロールとしては、名演と言っていいと思います。

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