「実行犯から遺体の場所が明かされたのに発見できず」 坂本弁護士一家事件、神奈川県警の深刻な捜査ミス 「“坂本は借金を抱えて失踪”と誤情報を報道機関にリーク」

国内 社会

  • ブックマーク

未曾有の悲劇を招いた“もたもた感”

 その後、犯行に使われたレンタカーのヘッドレストのアームからは、現場指示役の井上嘉浩の潜在指紋も採取された。これも井上が19歳の時に「麻原来る」のビラを信号の柱に貼っていたため、やはり軽犯罪で検挙し指紋を採取していたので分かったことだ。過去の警察官たちの、“地道な仕事”が解決に導いたといえる。そうした経緯を経て、「假谷さん事件は間違いなくオウムの仕業」となり、教団施設への一斉捜索の令状は、假谷さん事件の容疑で請求することになったのである。

 假谷さん事件の容疑も固まり、教団施設への一斉捜索の日程を巡り、警察庁と警視庁の間で連日やりとりが続いていた。

 3月17日、両者の検討会で「22日に一斉捜索実施」の方針が打ち出され、当時の防衛庁に防護服などの貸し出しを要請する。19日にも検討会が開かれたが22日実施の最終決定は見送られる。捜索の段取りなどで警察庁と警視庁とが折り合わなかった。サティアンには大量のサリンがあるかもしれないとの情報もあり慎重になるのも分かるが、この辺りの“もたもた感”が未曾有の悲劇を招いてしまったのではと思わずにいられない。

 警察関係者によると当時、教団には警視庁所属の警察官が6人いたという。「22日一斉捜索」の捜査情報が教団側に事前に漏れたとの指摘もあるが今となっては藪の中だ。少なくとも警視庁による假谷さん事件の捜査が3月に入り急速に進展し、捜査網が迫っている危機感が教団内に募っていたのは間違いない。

なぜ凶暴化したのか

 麻原の指示を受け、村井秀夫が実行犯5人にサリン散布を伝えたのは事件2日前の18日、少なくともこの時点でオウム幹部らは教団への強制捜査を相当意識していたのであろう。そして20日午前8時ごろ、捜査をかく乱するために地下鉄にサリンがまかれてしまう。オウムに先を越されてしまったのだ。

 そもそもなぜオウムは、ここまで社会との対決姿勢を鮮明にし、凶暴化していったのだろうか?

 教団が「オウム神仙の会」から「オウム真理教」に名称変更したのは87年7月のことである。翌88年9月に、男性信者が富士山総本部道場で修行中に暴れ出した。男性は引きつけなどの症状があり、村井が麻原に報告すると風呂場で頭を冷やすように指示する。村井ら信者数人で風呂の水に顔を漬けたりするうちに男性は亡くなった。

次ページ:殺人を肯定する教義

前へ 1 2 3 4 5 次へ

[2/5ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。