拷問係の男たちが「長いこと手こずらせやがったな」…プロレタリア作家・小林多喜二が築地警察署で虐殺されるまで

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社会矛盾に目覚め左傾化

 このころの小樽は、開拓が急ぎ足で進む北海道の「商都」として活気を帯びていた。多喜二が住み着いた若竹町付近では、北海道産石炭の積出港としての小樽港の築港工事が始まっていた。小林家の近くに工事現場があり、「タコ」と蔑称された土工たちが酷使される光景を間近に見ながら、多喜二は少年期を過ごす。実際、多喜二の作品には「タコ」の表現が頻繁に出てくる。

「北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木もそれはそのまま一本一本労働者の青むくれた『死骸』だった。築港の埋め立てには、脚気の土工が生きたまま『人柱』のように埋められた。――北海道の、そういう労働者を『タコ(蛸)』と云っている。蛸は自分が生きて行くためには、自分の手足をも食ってしまう。これこそ、全くそっくりではないか!」(「蟹工船」)

 貧困の現実と社会矛盾とを肌で感じながら、次第にマルクス主義への関心を強めた多喜二は、国内外の文献や小説を貪るように読み、文学の道を志すようになっていった。庁立小樽商業学校に入学後は、校友会雑誌の編集委員を務め、自ら多数の詩や短編作品を発表している。

志賀への強い憧れ

 大正10年(1921年)、多喜二は小樽高商(現小樽商科大学)に進学。民主的な文化が開花した「大正デモクラシー」の時代の花形だった有島武郎、志賀直哉ら白樺派の作家に引かれるようになった。とりわけ志賀への憧れは強く、何度も手紙を出し、志賀の作品の読後感想を綴ったり、同封した自作小説の感想を求めたりしている。

 だが、多喜二は、自分とは年齢の点でも格の点でも大差がある志賀に敬意を表しながらも、芸術と実際の社会運動とを峻別し、社会変革を訴えることのない超然とした作風に物足りなさを感じていた。大正13年、高商卒業と同時に北海道拓殖銀行に就職した多喜二は、「革命思想」を帯びた作品づくりにまい進するようになっていく。

 昭和2年(1927年)の多喜二の日記には、こう書かれている。

「志賀直哉の『山科の記憶』を全部読んでみたが、心をうたれるものがなかった。(略)志賀直哉の超社会性は、その文芸的基礎を乾す結果になることを意味し証明しているようだ」(浜林正夫著「小林多喜二とその時代」)

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