拷問係の男たちが「長いこと手こずらせやがったな」…プロレタリア作家・小林多喜二が築地警察署で虐殺されるまで

エンタメ

  • ブックマーク

Advertisement

蟹工船』などの挑発的な作品で知られる作家・小林多喜二。移住先の北海道で送った食うや食わずの子供時代は、後の彼に創作の道を歩ませた。共産党シンパのプロレタリア作家として注目を浴び、勤め先の銀行を解雇された翌年に上京。だがそれは逮捕と投獄の日々の始まりでもあった。「小林のやろう。もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって……」――凄惨な拷問で命を落とすまでの生涯をたどる。

(「新潮45」2006年2月号特集「明治・大正・昭和 文壇13の『怪』事件簿」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記は執筆当時のものです。文中敬称略)

 ***

徹頭徹尾の反体制文学

「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」

 昭和4年に発表された、プロレタリア作家・小林多喜二の代表作「蟹工船」は、登場人物の漁夫が放つ、函館なまりの一声から始まる。

「地獄」とは、函館から出港する蟹工船が向かう、北太平洋でのカニ漁の現場。極寒のオホーツク海上で、鬼のような現場監督者に酷使される労働者たちの姿が、詳細に描き出されていく。

 徹頭徹尾の反体制文学。労働者の目線から、資本家や国家の横暴を過激な筆鋒で告発するというのが、プロレタリア文学の真骨頂といえる。この小説でも、天皇家への献上品のカニ缶詰を作る場面で、作業員の一人が、

「石ころでも入れておけ!――かもうもんか!」

 とはき捨てるように叫ぶのだ。

北海道での苦しい生活

 多喜二は明治36年(1903年)、秋田県の農家の子として生まれた。小林家は旅館を営むようなかなりの富農だったが、事業に失敗して没落し、多喜二は父・末松、母・セキらとともに一家で北海道小樽市若竹町に移住。小林家は小さなパン屋を営んだものの、生活は楽にはならなかった。

 後に多喜二はこう回想している。

「……ぼくが四歳の頃、食えなくなったぼく達の一家は北海道小樽に移住した。場末の町で駄菓子屋を始めた。爾来ぼくは其処に二十何年住んだわけである。だが、生活は依然として食うや食わずだった。ぼくは学校へ通う長い道を、鉱山を発見して、母を人力車へ乗せてやることばかりを考えていた」(昭和6年「年譜」)

次ページ:社会矛盾に目覚め左傾化

前へ 1 2 3 4 次へ

[1/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。