「貧乏になった」日本だが文化の水準は保っている? 高額のクラシックコンサートのチケット売り切れに一安心(古市憲寿)

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「チケット求む」

 高齢の男性が寒空の下、そう書かれた紙を持ちながら、真剣な面持ちで立っていた。一人だけではない。もうすぐ開演だというのに、シニア層がチケットを譲ってくれる人を探しているのだ。ここは東京赤坂のサントリーホール。まもなくベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演が始まろうとしている。

 S席が4万5千円もするチケットは完売。もちろん当日券もない。来日は4年ぶりとあってファンにとっては待望の公演だったのだろう。素人が紛れ込んで申し訳ないと演奏を聴いていたのだが、不思議なことに十分楽しめた。特にベルク作曲の管弦楽曲が素晴らしかった。素晴らしいというか、悪夢やディストピアのようでもあった。いつもは暗く鬱々(うつうつ)とした人が躁状態になったかのような、奇妙な明るさが印象的だった。

 サントリーホールは、ベルリン・フィルの演奏者たちにも好評だったという。中には「世界一」と言ってくれた人もいたとか。1986年に開館した、非常に評価の高いクラシック専用の音楽ホールである。当時は「クラシック専用」というのが珍しかった。行政の作る施設は、地元のお遊戯会から表彰式にまで使える多目的ホールになりがちだからだ。

 そんな中、サントリー2代目社長の佐治敬三の情熱がサントリーホールを実現させた。佐治は大のクラシックファンで「ホールそのものが楽器と呼べるような」空間を作りたいと考えたのだという。ベルリン・フィルの伝説的な指揮者だったカラヤンの助言も仰ぎながら、完成したのだ。音響のために、観客席の椅子の生地にも気を使い、背もたれの高さも場所によって違うのだという(宮崎隆男『「マエストロ、時間です」』)。

 きちんと首都に評価の高い音楽ホールがあり、高額のチケットが売り切れる。近年、とかく「貧乏になった」と言われる日本だが、少なくとも文化においては一定の水準を保っているように思う。未だに岩波書店のような教養出版社が生き残り、誰が読むのかわからない本や雑誌を出し続けている。数千部の単位で売れる学術書は珍しくないし、新書なら数十万部を超えるヒットも現れる。

 だが、これがいつまで続くのかと思うと少し心もとない。サントリーホールは、企業のメセナ活動が盛んだった80年代の産物だし、ベルリン・フィルの観客も高齢者が多かった。読書人口も若いとはいえない。現在の文化の豊かさは、過去の遺産に頼るところが大きい。

 それほど心配することもないのかもしれない。歴史を振り返っても、文化は淘汰と再発明を繰り返しながら生き残ってきた。

 ベルリン・フィルでいえば、本国のドイツで夏至の時期に開かれるヴァルトビューネ野外音楽堂のコンサートは、家族連れや若いカップルでにぎわうという。適切な仕掛けさえあれば、きちんと文化は続いていく。来年あたりは、ヴァルトビューネに行ってみたくなった。多分一人でだけど。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2023年12月14日号掲載

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