「涙のリクエスト」「少女A」の作詞家「売野雅勇」が明かす“YMO”との秘話 「高橋さん、坂本さんは少年のような人たちでした」

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「YMOのライブに誘われたんだけど、断っちゃった」

――2枚目に収録された「TECHNOPOLIS」では、まさに加工した声で「TOKIO」と連呼していますね。「TOKIO」という言葉は、そのすぐ後、1980年1月1日に発売された沢田研二の大ヒット曲「TOKIO」でも使われ、万人が知ることになりました。

売野氏:2枚目のアルバムはミリオンセラーになるほどヒットして、YMOは世界的な人気になりました。第2弾でブレイクする前に、僕は幸宏さんから2度、YMOのライブに誘われたんだけど、断っちゃうんだね。

――なぜ断ったんですか?

売野氏:僕が人見知りなところがあったのと、幸宏さんに対して気後れしていたんだろうね。幸宏さんはかっこいいし、服のデザインをするほどおしゃれでセンス抜群だし、気後れしたんでしょうね。こちらが勝手に遠慮して距離を取っちゃったところはありました。それに作詞家になる前だから、音楽業界に知り合いがいなかったからね。あの時友人になれたのにと、凄く後悔しました。40年以上経っても後悔しています。

――売野さんは1982年に発売された中森明菜のシングル「少女A」が大ヒットしたことで作詞家として知られていきます。

売野氏:「少女A」がヒットした後、幸宏さんがトークショーのゲストに呼んでくれたんです。会場に着くと、信之さん幸宏さん兄弟がこっちに駆けてきて「売野くん、良かったなぁ。おめでとう! 凄いよ!」と心から祝福してくれたんです。涙が出そうなぐらい嬉しかったけれど、幸宏さんは世界ツアーもやった最先端をいく音楽家で、僕は歌謡曲の作詞家なのにと、また勝手に負い目を感じてました(笑)。幸宏さんはそんな垣根など無く人と付き合える人だったんだね。以降、安田成美さんのデビューアルバムなど、いくつも仕事を依頼してくれたんです。

レコーディング時に「量子論」の本を読んでいた“教授”

――YMOでは坂本龍一さんともお仕事されています。

売野氏:最初の依頼は坂本さんプロデュースでダウンタウンがやっていた「芸者ガールズ」の2枚目のシングル「少年」(1995年)でした。ダウンタウン関係の人が書いた歌詞を坂本さんが気に入らず、僕を指名してくれたそうです。坂本さんはね、“博覧強記”というか、その知性・知識に圧倒されたことが何度もありました。

――坂本さんって、音楽以外の部分、オフはどういう人なのかなどのイメージが湧きません。

売野氏:レコーディングの時に本を読んでいて、何を読んでいるのかたずねたら、量子論の本。「本当は高校生のころに読んでなくちゃいけないのに、今ごろ読んでいるの」と言われて驚きました。

――量子論ですか!? 読もうと思ったことすらありません。

売野氏:僕も読んだことなかったよ(笑)。坂本さんが作曲・プロデュースした中谷美紀さんのシングル「MIND CIRCUS」(1996年)では、僕が書いた歌詞の「少年らしさは傷口だけど 君のKNIFE」を指差して「ここ、いいね」と気に入ってくれましてね。僕が「それ、出典はシャルル・ボードレールです。“傷口にしてナイフ”」と言ったら、ちょっと考えてから“あ!”という表情になり「死刑囚にして死刑執行人!」と、引用した語句のすぐ後の言葉を出したんですよ。「悪の華」という詩集の「己れを罰する者」の一節です。即座に答えられるなんて、本当に驚きました。音楽家であそこまで幅広く豊富な知識を持っている人、そういないと思います。

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