「涙のリクエスト」「少女A」の作詞家「売野雅勇」が明かす“YMO”との秘話 「高橋さん、坂本さんは少年のような人たちでした」

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ファッション誌で原稿を依頼

 1980年代から現在に至るまで、数多くの名曲を生み出してきた作詞家・売野雅勇氏。「前編」に続き、稀代のヒットメーカーへのインタビューをお届けする。「後編」で明かされたのは、今年亡くなったYMOの高橋幸宏さん、そして、坂本龍一さんとの秘話だ。(前後編のうち「後編」)【華川富士也/ライター】

――作詞活動40周年を記念し、過去の名曲を集めたコンピレーション・アルバム「MIND CIRCUS」が発売され、1曲ごとに短編小説を新たに書き下ろされています。また2016年に発売された著書『砂の果実』が7月に文庫化され、そのあとがきでは、今年1月に亡くなった高橋幸宏さん、3月に亡くなった坂本龍一さんについて触れています。

売野氏:幸宏さんが亡くなった時は、兄上の高橋信之さんのツイートを読んでいたら涙が止まらなくなってね。僕は普段は全然泣かないんです。両親の葬儀でも泣かなかったぐらい。だから周りから“血も涙も無い男”と思われているんだけど(笑)、あの時は涙が溢れるように出てきました。自分でも驚きました。

――それほどの関係だったんですか。

売野氏:初めてお会いしたのは、まさにYMOがデビューする直前でした。1978年9月ごろです。僕は当時、「LA VIE」という男性ファッション誌を友人と立ち上げ、その創刊号に参加してくれていたスタイリストから紹介してもらい、幸宏さんに原稿をお願いしたんです。

「TOKYOじゃなく、TOKIOね」

――売野さんが作詞家デビューする前の話ですね。YMOのファーストアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」は1978年11月発売。YMO以前、幸宏さんは1975年までサディスティック・ミカ・バンドのドラマーを務め、英国ツアーも経験しています。どんな原稿でしたか。

売野氏:これから世に出るYMOについて、幸宏さん自身の言葉で解説していました。例えば「加工貿易型TOKIO ミュージック」と表現したり。「TOKYOじゃなく、TOKIOね」と打ち合わせで言ってました。

――デビューアルバムが出る前から「TOKIO」と表現していたんですか!?

売野氏:そうです。忘れられないのが原稿の受け渡し。「青山ベルコモンズの喫茶店にいます」と電話があって、「喫茶店の名前は何ですか?」と聞いたんだけど、教えてくれないんだね。行ってみたら、「珈琲野郎」という店名だった。どうも口にするのが恥ずかしかったみたい(笑)。

――当時はLINEどころか携帯電話も無く、外出時の連絡手段は公衆電話のみ。公衆電話はだいたいレジ横。お客全員から見える場所に立って、それなりに声を出して話さなきゃいけなかったですから。

売野氏:おかしくて愛おしい気持ちになったね(笑)。僕もそういうカッコつけるところがあるから、似たところがあるんだと親しみを持ちました。

――その後も付き合いは続いたんですか?

売野氏:YMOの2枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」が出る時(1979年9月)、幸宏さんがデザイナーをやっていた「Bricks」というブランドが、タイアップで誌面を10ページほど買ってくれたんです。幸宏さんが自分でデザインした服を着て、モデルとして登場しました。

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