【戦艦大和の真実】沈没の原因についてポツリと「あれは自爆だよ」、ビリヤード場で号泣した元乗組員…元週刊誌記者が明かす取材秘録

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

戦艦大和の大特集を上回る出来事

 さて、こうやって様々なコメントや資料が集められ、いよいよ入稿前夜である日曜日の夜、記者たちは続々と編集部に戻ってきた。これから朝までかけて、手分けしながら10頁の記事を書くことになる。森重さんや江木さんも、呉から最終に近い新幹線を乗り継いで、ヘトヘトで戻ってきた。

 ただ、記事の主眼でもあった「大和の特攻・沈没を天皇が知っていたのか」については、かなりギリギリまで取材が続いた。

「たしか、最後の晩、かなり遅くなってから、『だいたいわかったよ』と言いながら戻ってきたベテラン記者がいました」(森重さん)

 その記者によれば、3月29日に軍令部総長・及川古志郎大将(1883~1958)が最後の総攻撃を天皇に奏上した。その際、天皇から「航空部隊だけの総攻撃なるや」と御下問があった。これに対して及川大将がつい「艦艇も総攻撃に加わります」と言ってしまった。これが契機となって、大和を中心とする海上特攻作戦に発展したのだという。このことは連合艦隊の作戦参謀だった三上作夫元中佐(1907~1996)が証言してくれた。

 つまり天皇は、大和の特攻に関して知っていた。そして沈没については、当時、外務大臣秘書官として最高戦争指導会議事務局に出向していた加瀬俊一氏(1903~2004)が、こう証言してくれた。

《「たぶん(木戸幸一内大臣の秘書官長だった)松平(康昌)侯(爵)より私のほうが情報が早かったので、私がそれを松平侯に伝え、松平侯が木戸内相に、そして内相が陛下にお伝えしたのではかなろうかと思います」》(記事本文より)

 というわけで、この無謀な大和の特攻作戦と沈没は、大元帥である天皇の耳にも入っていたことが判明した。

 かくして明け方に10頁分の原稿が書きあがり、松田デスクがまとめて印刷所に入稿。午後にゲラが出て、記者たちは寝不足の目をこすりながら推敲、校了に持ち込んだ。

「記事は、大和の特攻を提案した神大佐の最期の姿で締めくくられていました」(森重さん)

《「神さんは北東方面艦隊の参謀長で終戦を迎えたんですが、終戦処理のために上京し、再度、北海道の千歳に帰る途中、乗機が津軽海峡に不時着しましてね。ただ一人、空を見上げながらブクブクと沈んでしまったといいます。泳ぎの名人で、しかも他の乗員は全員助かったんですがねえ。私はやはりこれは一種の精神的自殺だったと思います」》(千早元中佐。記事本文より)

 10頁の大特集《天皇は知っていた 誰が「大和」を沈めたか》は、こうして出来上がった。発売は1985年8月8日(木)。そして、初めての編集部が一斉の夏休み! 戦艦大和の取材で疲労困憊だった記者たちは、ひさびさの家族サービスや帰省で夏休みを満喫していた。

「ところが、8月12日の夜、自宅でビールを飲みながらテレビで『クイズ100人に聞きました』(TBS系列)を見ていたら、電話がかかってきまして……」(森重さん)

 当時、ケータイもスマホもまだない。電話は先輩記者からだった。

「羽田発大阪行き、日航123便の機影がレーダーから消えたぞ」

 翌週の週刊新潮は《震撼「日航機墜落」》と題する大特集を組むことになる。それが「戦艦大和」を上回る15頁になるとは、誰も想像していなかった。

註:戦艦大和や当時の戦況に関する記述は、すべて「週刊新潮」1985年8月15・22日合併号に基づくもので、その後、新たな事実が判明した事項もあります。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 3 4 次へ

[4/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。