【戦艦大和の真実】沈没の原因についてポツリと「あれは自爆だよ」、ビリヤード場で号泣した元乗組員…元週刊誌記者が明かす取材秘録

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特攻作戦の立案者は誰か

 ところで、大和特攻作戦の立案責任者は誰だったのか。こちらの取材班は、特攻決定が昭和20年4月5日だったことを突き止めた。沈没のわずか2日前である。当時、慶應大学日吉校舎の寄宿舎が連合艦隊司令部となっていた。そこで朝9時から「菊水一号作戦」会議が開催され、11名の幹部が出席していたという。取材班は次々とその11名を訪ね歩いたが、すでに逝去している人も多かった。

「しかし、作戦乙担当参謀として会議に出ていた千早正隆元中佐(1910~2005)がお元気で、細かく証言してくれています」(森重さん)

 それによると、大和はいったん佐世保に回航させて、米機動部隊を邀撃(待ち伏せ攻撃)することが内定していたのだという。ところが、米軍の動きのほうが早く、準備をしているうちにB29の大編隊が九州方面に襲来。北九州が空襲を食らってしまう。邀撃作戦は一瞬にして崩壊した。

 そして上述のとおり4月5日朝9時の会議となるのだが、

《「大和の特攻は、この時、神(重徳=かみ・しげのり)先任参謀の口からポンと飛び出してきたのです」》(千早元中佐。記事本文より)

 神参謀は優秀で頭の回転が速いことで知られていた。

《しかし、この時の「大和」の特攻にはさすがの参謀たちも驚いたらしい。/言下に、「燃料はどれだけあるのか」と傍らの関政一補給参謀に質問を発したのは千早参謀だった。関参謀の返答は、「三千トン。帳簿上はこれぐらいしかありません」/「私は即座に、“それでは片道になる。いかに九死に一生も得ない作戦とはいえ、片道攻撃では問題がある”と反対意見を述べ……(以下略)」》(記事本文より)

 ところが、昼近くになって、千早元中佐は異様な歓声を聞く。

《「もの凄い大きな声で“決まったぞォ”と叫んでるんですよ。飛んで行って“燃料はどうなったんですか”と聞くと、関参謀が“呉にいる小林(儀作)参謀が帳簿外の油を搔き集めたら一万トン出てきました”という」》(記事本文より)

 こうして大和の沖縄特攻が決まったのだが、その後もこの「燃料問題」は、果たしてどれだけ積まれたのか諸説が入り乱れることになる。

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