【袴田事件】まもなく再審可否決定 「警察の捏造」と確信していた女性弁護士が明かすその手口

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「端っこへ行ってください」

 東京拘置所で巖さんと面会した時のことをこう振り返る。

「袴田さんは『警察はひどい』と訴え、『沼津に小刀を買いに行ったことなんかない』『ズボンは全然穿けない』『あんな味噌樽に衣類を入れるはずはない』『金を(知り合いの女性に)預けたことなんてない』などと警察の主張を全てはっきりと否定していました。しっかりしていましたね」

 思わぬことがあった。何人かの弁護士と面会に行くと担当官が「女性の方は端に行ってください。(袴田さんの)正面に座らないでください」と言ったのだ。

「まだ私は30代前半でした。当時は女の弁護士は今よりずっと少なかったけれど、アクリル板越しなのに端っこへ行かされました。死刑囚の心情安定ということでしょうか。当時はそういう時代でしたね」

 当時40代前半だった巖さんの印象についてはこう語る。

「(死刑囚として拘留されたことが原因で起きた拘禁症状の影響がある)今の姿からは考えにくいけど、本人の書いた上告趣意書を読めば袴田さんがいかに感性豊かな素晴らしい文章を書く人かがわかります」

 田中さんは、ひで子さんの人柄にも惚れ込む。

「力及ばず申し訳ないといつも思っていましたが、ひで子さんが弁護団に対して不満を言うことなど絶対にない。あれだけの思いをしながら愚痴ひとつこぼさないんです」

 精神に変調をきたした巖さんに面会を断られても、ひで子さんは必ず月1回は浜松から東京拘置所に通っていた。

「袴田さんが『俺に姉なんかいない』と看守に話して面会を拒否しても、『しょうがないね。また来るさ』という感じ。それが何年も続くんですよ。いくら肉親でも、あんなことできないですよ。2018年6月に再審決定が取り消された時も『50年で駄目だったら100年でも戦う』って言っていました。本当に凄い女性です」

 女性同士ということで、同じ部屋に宿泊する機会もあった。

「ひで子さんは朝起きると突然、体操を始めるんで、はじめはびっくりしましたよ。そのおかげで今も若さや元気を保っているんですね」

 そんな田中さんは、巖さんが釈放された直後の2014年3月末に弁護士を廃業し、故郷の沼津市の事務所を閉じていた。

「袴田さんが釈放されたから辞めたわけではなく、半年ほど前から決めていました。特に裁判員裁判になってから刑事弁護がしんどくなっていました」

「もう後期高齢者になったので」と謙遜していた田中さんは、ものすごい記憶力だった。何を聞いてもすらすら答え、日時なども昨日の出来事のように正確に話す。まだまだ弁護士活動も続けられるはずで、他人の人生ながら少しもったいないと思っていたら、年内には弁護士を再登録するという。

「ずっと袴田さんのことが気になっていました。廃業しちゃうと弁護団会議にも出られないので、再登録しようと決めました」

註1:大崎事件
1979年10月、鹿児島県大崎町で当時42歳の男性の遺体が発見された。被害者の隣に住む長兄と次兄、長兄の妻が殺人と死体遺棄容疑で、次兄の息子で被害者の甥が死体遺棄容疑で、それぞれ逮捕。主犯とされた長兄の妻が、長兄・次兄・甥とともに保険金目的で被害者の殺害を企てたとして起訴され、それぞれ有罪が確定した。しかし、死亡原因は殺人ではなく転落による事故で冤罪であるとの主張があり、再審請求が続けられている。

註2:金嬉老事件
1968年2月、在日韓国人二世の金嬉老(きん・きろう/キム・ヒロ)=当時39歳=が、静岡県清水市(当時)で暴力団員を射殺した後、寸又峡(すまたきょう)の旅館に客らを人質に取って立て籠った。猟銃を持ちダイナマイトをベルトで腰に巻き付けていた金は、在日韓国人差別への謝罪を訴え、立て籠った4日間、記者会見を繰り返した。その様子はテレビ中継されメディアの報道は過熱したが、報道陣を装った警察官らに取り押さえられた。1975年に金の無期懲役が確定したが、1999年に仮釈放され、韓国に強制送還された。小説や映画にもなり、ビートたけし主演のテレビドラマも放映された。

註3:徳島ラジオ商殺し事件
1953年11月、徳島市の電器店(ラジオ商)店主=当時50歳=が殺され、内縁の妻・富士茂子さんも負傷した。10代の住み込み店員の証言により富士さんが逮捕。「内縁の地位に不満だった」ことなどが動機とされ、殺人罪により徳島地裁で懲役13年の判決が下る。富士さんは裁判費用が足りず上告を取り下げ、刑が確定。出所後に再審を請求。店員は「検事に強要されて嘘をついた」と証言したが認められず、第5次請求中の1979年に富士さんは69歳で病死。姉弟妹が引き継いだ第6次再審請求で、1980年、徳島地裁は再審開始を決定、1985年に無罪となった。後に渡辺美佐子が主演でテレビドラマ化された。

註4:丸正事件
1955年5月、静岡県三島市で丸正運送の女性店主が絞殺され預金通帳が奪われた。逮捕されたのは在日韓国人でトラック運転手の男性ら2人。目撃証言などに信憑性がなく、2人は無罪を主張したが有罪判決が下る。出所後に再審請求し、著名弁護士の正木ひろし氏らが弁護を担当したため世間の関心が高まった。結局、司法の場で雪冤はできず、再審請求中に死去した。弁護団が「親族3人が真犯人」と会見するなど異例の展開を見せ、一般には冤罪事件として知られる。作家の佐木隆三氏がこの事件を取り上げた作品を発表した。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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