巖さんの死刑判決を書かされ、その後の人生が暗転したエリート裁判官の苦悩【袴田事件と世界一の姉】

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 1966年、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で味噌製造会社専務の一家4人が殺された袴田事件。死刑囚となり、現在も再審無罪を求める袴田巖さん(86)を追った連載「袴田事件と世界一の姉」の25回目では、静岡地裁で巖さんの無罪を主張したものの、意に反して有罪・死刑の判決文を書かされた熊本典道氏(1938~2020)を取り上げる。若き日に袴田事件を裁いたことで、エリート人生が一転した熊本氏とはどんな男だったのか。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

死刑判決で異例の付言

 9月25日、ビートルズに関するニュースが久しぶりに報じられた。1966年7月に武道館で行われた伝説のコンサートの映像など、来日時の秘蔵フィルム(無音声)が見つかったという。名古屋の市民団体が、警視庁が撮影した警備状況の情報開示を求めたのに応じたものだ。袴田事件は、ビートルズ来日時に起きている。しかも両親、弟と共に殺された高校生の次女・橋本扶示子さん(享年17歳)は、この伝説のコンサートのチケットを購入しており、事件によって行くことが叶わなかったのだ。

 1968年9月11日、静岡地裁での一審の死刑判決では、石見勝四裁判長によって法廷で以下の付言が読まれた。

〈被告人が自白するまでの取調べは、外部と遮断された密室での取調べ自体の持つ雰囲気の特殊性をもあわせて考慮すると一被告人の自由な意思決定に対して強制的・威圧的な影響を与える性質のものであるといわざるをえない。

 すでに述べたように、本件の捜査に当って、捜査官は、被告人を逮捕して以来、もっぱら被告人から自白を得ようと、極めて長時間に亘り被告人を取調べ、自白の獲得に汲々として、物的証拠に関する捜査を怠ったため、結局は、「犯行時着用していた衣類」という犯罪に関する重要な部分について、被告人から虚偽の自白を得、これを基にした公訴の提起がなされ、その後、公判の途中、犯罪後一年余も経て、「犯行時着用していた衣類」が、捜査当時発布されていた捜索令状に記載されていた「捜索場所」から、しかも、捜査官の捜査活動とは全く無関係に発見されるという事態を招来したのであった。このような本件捜査のあり方は、「実体真実の発見」という見地からはむろん、「適正手続きの保障」という見地からも、厳しく批判され、反省されなければならない。本件のごとき事態が二度とくり返されないことを希念する余り敢えてここに付言する。〉

 この付言を書いたのは、巖さんを無実だと確信しながら静岡地裁の合議制(3人)の多数決で通らず、主任だったために意に反した判決文を書かされた熊本氏だった。

司法試験にトップ合格

 熊本氏は、1938年に佐賀県東松浦郡打上村(現在の唐津市)に生まれた。両親は教育熱心な学校教員だった。祖父は医師で、孫が医師になること望んだが、唐津高校在学時代に父親が詐欺に遭い退職金をすべて奪われたことから、「不正義を糺(ただ)したい」と法律家を目指す。

 九州大学法学部に在学中、超難関だった司法試験を受けた。1度目は面接で落ちたが、2度目には合格者334人中、トップの成績で合格する。九州大学では戦後初の司法試験合格者だったことから、新聞社の取材も受けたという。東京地裁・家裁の判事補から裁判官生活がスタートする。この時に一緒だったのが、裁判官時代に多くの無罪判決を出し、現在は「冤罪弁護士」でも知られる木谷明氏(84 )である。

 熊本氏は、先輩裁判官から「君は余計なことをしないで淡々と仕事をしていたら最高裁判事になれる」と言われるほど優秀だったという。その後、司法修習時代の教官の紹介で静岡県沼津市の弁護士の娘と結婚する。ところが、彼女は自殺未遂なども起こす重度のうつ病だった。福島地裁白河支部に赴任していた熊本氏は、退官して妻の世話をしようとしたが、上司に説得され、静岡に赴任させてもらった。これによって袴田事件にかかわることになるのである。

 熊本氏が静岡地裁に赴任した時には、すでに袴田事件の初公判は終わっていた。犯行を自白したとされていた巖さんは、初公判で「私は殺(や)っていません」と起訴内容を明確に否定し、完全に否認した。熊本氏は第2回公判から左陪席の主任として事件を担当した。

 前任の裁判官は「難しい事件になりそうだ」と言っていたそうだ。1967年12月の2回目の公判で、熊本氏は石見裁判長に頼み、起訴状についての被告人の罪状認否を行ってもらった。通常、罪状認否は初公判でしかやらない。異例だった。

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