巖さんがはいていたことにされた「緑のブリーフ」の矛盾【袴田事件と世界一の姉】

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「被告人を死刑とする」

 高度経済成長で物質的には豊かになりゆく日本社会にあって、1968年9月11日に静岡地裁で巖さんの判決が言い渡された。この日の静岡新聞夕刊は以下のように報じている。

《袴田、「死刑判決」に顔面そう白 清水の一家四人強殺放火
 小刻みに体をふるわせ 血染めの衣類など 証拠全面的に認められる 静岡地裁

 袴田被告の判決は「死刑」だった……。静岡地裁石見勝四裁判長は十一日午前十時から開いた一家四人強盗殺人放火事件の被告袴田巌(三二)に対し同十一時五十二分、求刑通り死刑をいい渡し同五十五分閉廷した。ワイシャツにノーネクタイの軽装で被告席に立った袴田は死刑を宣告されるとさすがに顔面はそう白となり体は小刻みにふるえていた。(中略)

 定刻の十時に石見裁判長を真ん中にはさんで左に高井吉夫、右に熊本典道両陪席裁判官が着席した。裁判長はまず袴田被告に対し「判決のいい渡しが長くなるので腰を降ろして聞くように」とまず被告席に座らせた。つづいて同裁判長は「判決に長時間かかるため順序を変更していい渡す」と前置きしてから判決理由の説明にはいった。(中略)

 笑いを浮かべ出廷 袴田

 午前九時四十五分すぎ、袴田被告を乗せたマイクロバスが静岡地裁裏の被告出入口に到着。白の半ソデシャツの同被告はドアが開けられるとあたりを見回すようにしたあと笑いを浮かべ、足早に歩き出した。この時注意を引こうとしたカメラマンの一人から「袴田!」の声がかかると振り返って一べつを与え、そのまま被告人控え室に姿を消した。》

 巖さんの姉・袴田ひで子さん(89)が当時を振り返る。

「静岡地裁の公判はほとんど、母(ともさん)や兄(茂治さん)が傍聴に行っており、私はあまり行きませんでした。巖は盛んに手紙を送ってきていましたが、『5点の衣類』が見つかったという時に『真犯人が動き出した』と喜んでいて、かなり楽観的な様子で書いてきていましたし、わたしも逮捕は何かの間違いと思っていました。映画(『BOX 袴田事件 命とは』2010年公開)では私も母も法廷で死刑判決を聞いてようになっていますが、違います。法廷には入らず、家族らみんなで外で待っていました。ファイティング原田さんらボクシング関係者の人たちもいました。誰かが有罪で死刑になったことを伝えに来ました。まさかと言葉を失いましたね。なにしろ私は、巖の手紙だけで判断していて、無罪と思っていましたから」

 傍聴しようとして必死で地裁に行ったのでもなかったそうだ。ひで子さんは「もちろん無関心だったのではありませんが、何としても法廷に入らなければとは思わなかった。なにしろ巖が『僕は真っ白です。安心してください』なんて母親に伝えてくる手紙で、家族は安心しきっていましたから。私も母もきょうだいも、有罪になるなんてまったく考えていない。だから弁護士さんに『裁判はどうなっていますか?』なんて聞くこともなく、任せていましたよ。のんびり構えていたんです。だから死刑判決で慌てましたよ」

 死刑判決と知って初めて慌てたというのは驚きだが、「逮捕は何かの間違い。裁判所はわかってくれている」と裁判所を信用しきっていた一般市民からすればおかしくはなかった。

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