巖さんがはいていたことにされた「緑のブリーフ」の矛盾【袴田事件と世界一の姉】

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2枚に増えた緑色のブリーフ

 検察は「パジャマ姿で犯行した」という冒頭陳述を「黒ズボンとグレイのスポーツシャツ姿で4人を殺傷し、パジャマに着替えてから混合油を現場に運び込んで放火した」と訂正した。この黒ズボンと緑色のブリーフなどの「5点の衣類」が巖さんのものであることを立証するため、複数の証人を呼んだ。衣類に付着していた血液がA、B、AB型で被害者のものと同型であるとの鑑定結果も出してきた。しかし、ブリーフには被害者(藤雄専務の妻・ちゑ子さん)のB型の血が付いていたとされたが、上にはいていたステテコなどには全く血が付いていない不自然さだった。

 対して弁護側は、「5点の衣類」の緑色のブリーフが巖さんのものではないことを立証するため、家族が保管していた緑色のブリーフを証拠として提出した。

 ひで子さんが緑色のブリーフについて振り返る。

「パンツ(緑色のブリーフ)は、母(ともさん)が清水屋という馴染みの洋品店で『この頃の若い衆はこんなのもはくようですよ』と勧められて購入し、事件の前から巖がはいていたものでした。巖が逮捕された後、寮から他の荷物と一緒に実家に送り返されてきました。そしてある時、伊豆にいた兄の實がお祭りに行くために中瀬(当時、実家のあった旧・浜北市中瀬)に帰ってきた際に、母が『(拘置所の)巖に差し入れて』と持たせたのです。兄は弁護士に持っていったけれど『これは派手だから拘置所で渡してくれないよ』と言われて持ち帰り、伊豆の自分の家の押し入れにしまっていたんです。ところが翌年、『5点の衣類』の中に緑のブリーフが発見されたと報道されました。その年も帰省していた實が『緑のブリーフなら俺のところにあるよ』と言ったので、母親はもう喜んで喜んで。『(見つかった緑のブリーフは巖がはいていたものとは別だから)これで巖の濡れ衣が晴れる。早く弁護士さんに報告して』と久しぶりに明るい顔をしていたんです。それはよく覚えていますよ」

 緑のブリーフが実家に送り返されたのは、事件があった年の1966年9月27日。ところがその翌年の8月に、味噌タンクから「5点の衣類」として、同じ緑のブリーフが出てきた。1枚しかないはずのブリーフが2枚になったのだ。そしてここにこそ、警察の捏造工作をうかがわせる伏線がある。

 判決文は「従業員である水野源蔵ら九人が被告人が緑色のパンツを穿(は)いていたことを見ており、同人らはこがね味噌の従業員のうちで緑色系のパンツを穿いている者は被告人以外には見たことがないと述べている」としている。

 共同生活をしていた巖さんは、従業員仲間に共同浴場などで緑のブリーフをはいていることを見られていたため、警察もそれを把握していた。だから事件翌年、「特徴ある巖さんの所持品」である緑のブリーフを味噌タンクに放り込む工作ができたと考えるのが自然だろう。ちなみに緑のブリーフについて証言したうちの1人、水野源蔵氏は「5点の衣類」を発見した男でもある。

 静岡地裁は証拠提出された實さん保管のブリーフと「5点の衣類」のブリーフを照合し、製造工程や販売路などを検討したが、判決では實さん保管のブリーフについて、「メーカーがミシンを改良した後の製品」として、事件前にともさんが買えるはずはないとしてしまう。

 後にこれら2枚のブリーフは別のメーカーの製品だったことが判明した。ところが東京高裁の控訴審判決では、ともさんと實さんが「嘘を言っている」とごまかしてしまうのだ。

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