巖さんがはいていたことにされた「緑のブリーフ」の矛盾【袴田事件と世界一の姉】

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 1966(昭和41)年、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で味噌製造会社「こがね味噌」の橋本藤雄専務一家4人が殺害された「袴田事件」。強盗殺人罪で死刑が確定した袴田巖さん(86)の裁判などを追う連載『袴田事件と世界一の姉』の24回目は、一審判決について取り上げる。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

1968年はどんな年だったか

 巖さんの一審判決(静岡地裁)が下されたのは、今から54年前の1968年9月11日だった。橋本専務一家の惨殺事件から2年2カ月余、警察が新証拠とした「5点の衣類」の発見からほぼ1年後のことだ。多くの疑問点をスルーして死刑を言い渡した判決は、「結論ありき」としか思えない。

 1968(昭和43)年といえば、学生運動に身を投じた歌手の加藤登紀子さん(78)が東京大学文学部を卒業した年である。著書『登紀子1968を語る』(情況新書)では、《社会に疑問を持ち、異議を唱え、挑戦し、理想を求めた1968年までの世界の若者の戦いが、以降は革命を目指す暴力の中で内ゲバに変質していく。のびのびとした学生運動を国が暴力的に弾圧したため、学生たちはより政治的、反権力へ流れていった》など、この年を重視する。

 さらに1968年、国内では「3億円強奪事件」や東大紛争、静岡県寸又峡の「金嬉老事件」などが起きた。川端康成がノーベル文学賞を受賞したのもこの年だ。海外ではベトナム戦争で「ソンミ村虐殺事件」、さらにソ連は衛星国のチェコスロバキアに軍事介入して「プラハの春」を潰し、圧政を敷く「チェコ事件」に発展した。

 10月のメキシコ五輪では4年前の東京五輪の女子体操で個人総合優勝したチェコのベラ・チャスラフスカが世界中の応援を背に連覇し、ソ連の女子選手らが「悪役」になっていた。男子体操では加藤澤男が大逆転の個人総合優勝を果たし、鉄棒少年だった筆者は歓喜した。陸上男子100メートル走でジム・ハインズ(米国)が世界初の9秒台を記録、同じく走り幅跳びでボブ・ビーモン(米国)が残したオリンピック記録8メートル90は未だに破られていない。60代以上の人がよく覚えているのはエース・ストライカー・釜本邦茂の活躍による男子サッカーの銅メダルだろう。

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