巖さんはなぜ「裏木戸の下部を3回通り抜けた」ことになったのか【袴田事件と世界一の姉】

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住民証言は覆せず珍奇な「裏木戸出入り」に

 大きな邸宅には一番奥の土蔵の近くに木製の観音開きの裏木戸がある。「閂(かんぬき)」と呼ばれる頑丈な木の棒を通して締めるが火災で焼け落ちてしまい、犯行時、閂が閉まっていたのかどうかははっきりしない。それとは別に、上下に金属製の簡単な留め金の鍵があった。供述通りだと、巖さんは裏木戸を3回、通過したことになる。そのたびに目の前の留め金を外しもせず、わざわざ狭い隙間を潜り抜けたということになる。この裏木戸は普段、従業員が食事や仕事で利用する通路だった。留め金の位置も分かっていて、3回も下から潜り抜けるような不自然なことをするはずもない。「ありえない行動」だ。

 実は警察には、「袴田が裏木戸から脱出した」としなくてはならない理由があった。巖さんは殺害の後、一度、外に出て、今度は混合油(ガソリンの一種)をバケツに入れて戻ってきてそれを撒いて放火したことになっている。当初、「屋根伝いに再侵入した」としようとしたが、重い雨合羽(当時の製品は重い)を纏って、ゴム草履でクリ小刀や混合油を満たしたポリバケツを持って木に登って屋根伝いに歩き、中庭から再度敷地に侵入する……そんな芸当は無理である。警察は困り、再侵入も裏木戸にせざるを得なかった。ポリバケツを隙間から押し込んだ後、体を捻じ入れたことにした。

 放火後の逃走について、巖さんは「裏木戸の棒(カンヌキ)を外して、下の留め金を外して下を引っ張ると、上は開かなかったが、下の方が体が出るくらい開いたので、そこから外に出た」と自供している。消火に駆け付けた住民は、「裏木戸を開けようとしたけれど、閂がかかっていたのか、開かなかった。石や足でけ破った」と証言している。巖さんが最後に出た後に消火に来たのだから、鍵がかかっているのは不自然だった。しかし警察は近隣住民の「閉まっていた」を否定できなかった(1人や2人なら「開いていた」と偽証でもさせたかもしれないが)。苦肉の策が「上の留め金だけかかっていた状態で3回の出入り」だった。

 警察は実験写真を静岡地裁に提出し「上の留め金がかかった状態で下から出入りできる」とした。しかし、その写真には上の留め金部分は写っていない。

 弁護団と支援者は全く同じサイズの木製の扉を製作し、閂が外れ、下の留め金が外れていても、上の留め金がかかっていればとても身体が通らないことを実証した。無理に通り抜けようとすると、留め金をネジが吹っ飛んだ。体が入った状態では、木製の扉が多少、たわむことを考慮しても上部の方もかなり開いてしまい、小さな留め金がかかったままということはあり得なかった。

 弁護団と支援団体は「通れた」とした警察の写真を写真工学の専門家と検討したが、上の留め金がかかったままだと人が通り抜ける写真は撮影不可能だった。不審に思った弁護団は検察にネガフィルムなどの提出を求めたが、静岡地裁はすべて「不要」として検討しなかった。裁判所は何の根拠もなく「裏木戸の下部から3回通り抜けた」ことにしてしまったのだ。

 近隣住民の証言を覆せない警察は留め金だけは最後までかかっていたことにし、巖さんにはそれに沿うように供述させた。5点の衣類同様、裏木戸の出入りも「警察の捏造」だった。

 冤罪事件では「通常はありえない人間の行動」がよく出てくる。例えば、前回紹介した鹿児島県の大崎事件でも、検察の立件通りなら、原口アヤ子さんの肉親たちは就寝していた夜中に突然起き出して「おい、殺しに行こうぜ」と殺害に向かったということになってしまう。

 警察や検察は犯人と決めてかかれば不自然だろうが何だろうが「何でもあり」になる。それを検証もしない裁判所の姿勢こそ、問われるべきだった。

自由にさせるのが一番

 裏木戸実験について、ひで子さんは「まだ巖の判決が確定した頃だったか、今村(高五郎)さんたちが清水でそういう実験をしていたのは立ち会ったりしたけど、その後の実験は見ていません」と振り返った。基本的にひで子さんは裁判については弁護士に任せて、口を出したりしない。

 小川秀世弁護士は「東洋大学工学部と一緒に一番最初に裏木戸を作って実験したのは小沢優一弁護士です。確定判決翌年の1981年秋ごろです。通り抜けようとすれば留め金が飛んでしまう結果は、第一次再審請求で提出されました。僕たちも巖さんの支援者で静岡県議だった今村さんたちと裏木戸の模型を作って、いろいろやったけどなかなか警察の写真と同じようにならない。ヒンジ(蝶番)を外すとそういう写真も撮れたけど。警察も無理筋で巖さんが下から3回通り抜けたことにせざるを得なかったんですね」と振り返った。それがひで子さんが見ていた実験のようだ。

 当時、実験に参加した「袴田巖さんを支援する清水・静岡市民の会」の山崎俊樹事務局長は「警察の写真はたった3枚しか開示されなかったが、1枚に止めネジの跡が写っていた。我々が実験しても、裏木戸の上の留め金がかかったままでは通れない。おそらく、上の留め金をかけたまま、下の方を開いて通ろうとしたが、留め金が外れてしまったのでしょう。一般家庭でも自宅のトイレのドアの上を押さえたまま、下を開いて通ることはできないでしょう。それができたと警察は言っているのですね」と話している。

 さて、清水集会でも話していたが、リモート会見でもひで子さんは「この頃、巖は、ちょっと、いや、大変おかしいとはいえ、昔よりはまともな対話ができるようになったんです。まだまだ拘禁症はなおっておりませんです。ハイ」と話した。後日、電話で「ちょっと巖さんにいろいろ聞いてみて、頭脳の回復ぶりを試してみたりはしないのですか?」と訊いた。

 ひで子さんは「そんなことはしやせんですよ。どこ行ったのかなんて詳しく聞いたりもしない。巖から話せば別だけど。なるようにしかならんし。巖は自然のままに暮らさせておくのが一番ですよ」と電話の向こうで笑った。ヤマ場となる証人尋問は酷暑の時期だ。ひで子さんの身体が心配になるが、「暑かろうと何だろうと行かなきゃしょうがない」と極めて元気だ。

参考:高杉普吾著『袴田事件 冤罪の構造』(2014年 合同出版)

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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