「戦場にいない間、全てを忘れたい」と語るウクライナ兵 50日間現地取材した記者が明かす戦地のリアル

国際

  • ブックマーク

Advertisement

戦争という現実が日常化

 残骸が直撃した現場は12階建てのビルで、最上階の屋根が破れたように吹っ飛び、窓ガラスも粉々に破壊された。そんな危険と隣り合わせの体験をしていながらも、「もう慣れましたよ」と語るリュバさんの言葉に、ある種の恐さを感じた。

 それは空襲警報が鳴っても、街行く人々が慌てない心情に通じるのかもしれない。十中八九は大丈夫だろう、というそれまでの日々に裏打ちされた何となくの自信。そしてもう一つは、戦争という現実が日常化してしまったことによる「慣れ」だ。長期化による「感覚のまひ」とも言い換えられる。それが時に、悪夢につながるから恐いのだ。

 一度だけ、空襲警報が鳴っている深夜に、リュバさんからこんなメッセージが届いたことがある。

「窓から一番離れたところにいてください」

 ホテルの部屋にいた私は一瞬、冷やっとした。

「真面目に言っていますか?」

「はい、念のために」

 私はトイレへ駆け込んだ。数分後、警報が鳴り止んだ。

「もう大丈夫です」

 ホッと胸を撫で下ろした。私はまだ、戦地に「慣れる」ことができなかった――。

たった1日で安全なワルシャワへ

 5月8日夕、キーウを出発した長距離バスは、ポーランドへ向かっていた。深夜、その道中でも空襲警報が鳴り響くと、バスが停車した。フロントガラスは白いスクリーンのようなもので覆われている。バスの中の光が外に漏れて目立つのを防ぐためだ。

 キーウを拠点に、ロシア軍によって占拠された街々の取材が一段落し、私は日本への帰途に就こうとしていた。成田空港を飛び立ってからはや50日。正直、こんなに長期化するとは思ってもみなかった。

 翌朝、バスがワルシャワに近づくと、視界が急に開けたように明るくなった。抜けるような青空、街を彩る木々の緑、ショッピングモールを行き交う買い物客のざわめき……。日本から到着したばかりの頃は、こんなありふれた日常にいちいち感慨を覚えることはなかった。それほどまでに、目の前の景色は戦地で脳裏に焼き付けられた惨状とかけ離れていた。キーウにいた昨日とワルシャワにいる今日。たった1日の違いだが、そのギャップをうまくそしゃくできないまま平時の空間に放り込まれ、戸惑っている自分がいた。

 ポーランドを出国する前にPCR検査を受け、陰性の結果を確認して飛行機に搭乗した。成田空港に到着すると、またしてもPCR検査が待っていた。

帰国して数日後、スマホの警報音が…

 自宅待機などに関する誓約書への署名、そして入国者健康居所確認アプリのインストールを済ませ、唾液採取によるPCR検査へ。陰性の結果が出たが、私はワクチンを2回しか接種していないため、1週間の自宅待機を余儀なくされた。翌日以降、

「今すぐ現地報告ボタンで現在地をご報告下さい」

 という「入国者健康確認センター」から送られてくるメッセージに対応し、またランダムに着信が入り、健康状態を報告し……ということが繰り返される「監視生活」が始まった。

 日本の水際対策は厳しいと聞いていたが、これまでの50日間、マスクを着用しない、コロナ対策とは無縁の生活を送っていたため、正直、このがんじがらめの状態には、うんざりさせられた。

 だが、翻って考えてみると、こうした水際対策を厳格に実施できるという「余裕」こそが、平和を享受している証なのかもしれない。少なくとも、ウクライナは今、それどころではない。

 帰国してから数日後。静まり返った深夜に、私のスマホがいきなり鳴った。

 ピーッ、ピーッ、ピーッ……。

 ウクライナでインストールしていた空襲警報のアプリが反応したのだ。東京から約8200キロ離れた異国の現実に、一気に引き戻された。

 戦争はまだ、続いている。

水谷竹秀(みずたにたけひで)
ノンフィクション・ライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒。2011年、『日本を捨てた男たち』で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。10年超のフィリピン滞在歴をもとに「アジアと日本人」について、また事件を含めた現代の世相に関しても幅広く取材。5月上旬までウクライナに滞在していた。

週刊新潮 2022年6月9日号掲載

特別読物「『キーウ』『虐殺の街ブチャ』… “50日間取材”で見えたものとは 新聞・テレが報じない『兵士と市民たち』のウクライナ戦記」より

前へ 2 3 4 5 6 次へ

[6/6ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。