「在日本朝鮮人連盟」誕生の歴史 共産主義者が反共民族派の幹部を拘束・監禁

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一夜にして左派一色に

 1945年10月15日と16日に「在日本朝鮮人連盟」の結成式典がとり行われた。公安調査庁の法務官・坪井豊吉は当時の様子を次のように紹介する。

「かくして十月十五日には、東京の日比谷公会堂に全国の代表者約五千名が参集し、全国的な結成大会を開催し、権赫周(権逸)の結成経過報告を承認して満場一致をもって『在日本朝鮮人連盟』(略称朝連)を正式に結成することを決定した」(坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』法務研究報告書)

 この日までは、準備委員会で選ばれた親日派が組織の中枢にいて、式典も彼らが運営していた。ところが翌16日になると、状況は一変する。この日は会場を東京・両国公会堂に移して開催されたが、その日の様子を法務官の坪井はこうつづる。

「開会にさきだち、二階の各所から『朝鮮民衆新聞』創刊号やビラが配布されたり撒かれたりした。その中にはかつて相愛会、協和会、一心会、興生会などに参加していた朝鮮人幹部名をならべ『親日派と民族反逆者を徹底的に朝連から一掃せよ』と力説されていた」(同前)

 会議は、左派の指導者である金正洪によって進行され、府中刑務所から出獄した共産党幹部の金天海が演壇にあがり朝鮮統一と天皇制打倒と親日派糾弾について応援演説をぶちあげると、新しい役員人事が発表され、圧倒的声援と拍手により承認された。

 その顔ぶれは、準備委員会時の愛国組織の団体の長が一掃され、左派とその同調者によって独占されてしまった。朝連の中央役員陣は、一夜にして左派一色に塗り替えられてしまったのである。

結成式典での乱闘

 大会を前に、権逸は悪い予感がしていたという。

「私たちは初日の会議を無事に済ませたことでひとまず安心はしたが、どうしても何か起こりそうな気がしてならなかった。私は申君(申鴻シク・前朝鮮奨学会朝総連側主席理事)に『明日の会議には出ない』と言った。申君は『それは話にならない、今日まで苦労したのだから、明日一日我慢しよう』と言ってきかなかった。(略)会議場に入ってみると事態は心配していた通りであった。全国から集まった代表たちに、金桂淡(金天海直系の部下)が発行した謄写版刷りの『朝鮮民衆新聞』創刊号が配られ、そこには『×××などを徹底的に葬れ!』などという激しい煽動記事が満載されていた。場内の雰囲気は今にも爆発しそうに騒がしかった」(権逸・同前)

 危険を感じた権逸は京都帝国大学教授の李哲在博士(のち越北)とともに会場を出て、隅田川河畔に向かった。だが何人かの青年たちが追いかけてきて捕まり、両国公会堂の4階に押し込められてしまう。

「そこには、既に康慶玉、李能相、朱基栄等の同志が閉じ込められていて、恐怖に震えていた。共産主義者たちはとうとう白昼テロをやってのけたのである。罵倒と喊声が乱れ飛ぶなかで、拳と靴、棒切れが容赦なく私を襲った。私は、生まれてはじめて経験する暴挙の前になす術もなく、私の運命を彼らの残忍な手にゆだねるほかなかった。頭と顔が裂け、血がほとばしり瀕死の状態に陥った。『こいつを、外にほおりだせ!』と叫ぶ声がかすかに聞こえてきた。混沌としている意識のなかで、この叫びを聞いた私は心臓が止まる思いだった。四階の窓から外へほおり出されたらすべて終わりだ。私は何か叫びたい衝動にかられたが、声にならなかった」

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