「在日本朝鮮人連盟」誕生の歴史 共産主義者が反共民族派の幹部を拘束・監禁

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親日派は追い出されることに

 もっとも権逸の回顧録や坪井の分析では、政治犯釈放運動を始める前から金斗鎔の胸の内には、革命の母体としての日本共産党というシナリオが描かれていたように思われる。準備委員会の発足時には日本共産党再建のために朝鮮人組織を利用することを企図し、親日派団体が組織内に保有していた資金を奪取する計画ができ上がっていたのではないか。

 こうして当初は組織の中枢を占め、全国の朝鮮人団体を率いるはずだった権逸ら親日派は追い出されることになった。準備委員会の一人、張錠壽は当時を、次のように語っている。

「解放前に共産党や全協(日本労働組合全国協議会)などで社会主義運動をしていた人たちが朝連の実権を握ってくると、民族にたいする反逆をした者は追放するという規定がなされ、協和会や相愛会の役員をしていた者たちは全部排除された。さらに第二回中央委員会で、民族反逆者の処罰は徹底的に行わなければならないということが決定された」(張錠壽・同前)

「日本帝国主義に協力した民族反逆者」という概念

 追放は各地で行われた。

「朝連中央の決議を受けて、大阪でも民族反逆者を徹底追及しようという動きが出てきた。大阪で協和会の常任委員をしていたのは金晋根、金鐘鳴、そして朴時子という人たちだった。(略)協和会の指導員をしていて朝連の常任委員をやっていた人でも、反省せずに自分は偉いのだという自惚れた気持ちをもった人は徹底的に排除された。康敬玉という済州島の人は、大阪で排除されて、韓国へ帰ってそこでも排除され、消息がわからない。この人は権逸といっしょに一心会に関係していた。いっぽう権逸のほうは東京でのさばって、いまでも民団の顧問をしている」(同前)

 金斗鎔本人も『朝鮮近代社会史話』(郷土書房)で、一連のくだりについて若干触れている。

「さて、これらの団体や、その団体で働いていた主なる幹部たちは、今はどうなったか? それらは、読者諸君がよく知っているだろう。そのなかの或るものは正しい路線に沿うて、民主の陣営に来ている。しかし大部分のものは相変わらず反動の途を歩きつつ、敵対的に動いている。しかもその反動とは何か? 昔日の反動は、以上のごとく日本帝国主義に協力したあまりにも明らかな民族謀反者だった。われわれはこれに明らかに親日派という規定をつけている」

 すでにこの時、昨今の韓国において耳にする「日本帝国主義に協力した民族反逆者」としての親日派という概念が確立していることは特筆に値するだろう。

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