ひで子さんが語る“戦前の袴田家”巖さんはどんな弟だったのか【袴田事件と世界一の姉】

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フジヤマのトビウオ

 ここで、ひで子さん・巖さん姉弟の生い立ちを振り返る。

 ひで子さんは1933(昭和8)年の2月、巖さんは1936(昭和11)年3月、浜松市街地の西側に位置する雄踏(ゆうとう)で、木材会社に勤める父・庄市さん、母・ともさんの間に生まれた。ひで子さんは6人兄弟の5番目の三女、巖さんは三男で末っ子だ。ひで子さんは朝日が昇る頃に生まれたことから、庄市さんは「縁起がいい」と喜び、戸籍は「日が出る」の意味から「ひで子」として届けられている。雄踏は浜名湖の南東に位置し、東海道新幹線からもすぐだ。ひで子さんは学校へ通う頃から、名子役から後に『二十四の瞳』などに主演した大女優・高峰秀子(1924~2010)の愛称と同じ「デコちゃん」と呼ばれていた。母からは頼られ、バスで行く遠方の買い物なども頼まれた。子供たちの遊びに入っていけない内気な級友の手を取って引っ張ってきて参加させるような、子供の頃から「姉御肌」だった。末の2人は仲が良く、ひで子さんは弟に学校の勉強を教えてやったりした。幼い巖さんは、浜名湖畔で遊ぶ時はもちろん、どこへ行くにも、子供の頃からしっかり者で「頼れる姉」ひで子さんにくっついて遊んだ。

 休みの日は一家で浜名湖に繰り出し、船大工の腕もある庄市さんが作った木の小舟を湖面に浮かべた。「兄たちが沖で魚を釣り、私と巖はアサリを獲ったりした。ボラなんかがおいしかった」とひで子さん。自給自足ができ、貧乏だったが栄養不足にはならなかった。夏休みには浜名湖で遠泳をやった。小学生になった巖さんは、兄の茂治さんや實さんに必死についていき、泳力も身に付ける。

 浜松市は日本水泳界の伝説的英雄を輩出している。「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進(1928~2008)だ。ひで子さんや巖さんが最初に通った雄踏小学校の出身で、浜名湖の遠泳で鍛えた古橋は中学校から本領を発揮し、卓越した泳力で有名になる。しかし、戦時色が強まり水泳競技を中断。学徒動員され砲弾工場で働いていた時に手の指を切断するが、戦後、日本大学に進学し競技復帰すると破格の活躍を見せる。1948(昭和23)年のロサンゼルス五輪には敗戦国日本は参加できなかったが、同時に開催された日本選手権で古橋は、400、800、1500メートルの3種目で、金メダリストを上回る世界記録を打ち立てた。後に参加を認められた全米選手権では、米国選手を破って次々と世界記録を残し、米国の新聞が「フジヤマのトビウオ」と命名した。体格に勝る米国選手に勝つ勇姿は、敗戦に沈む日本人を勇気づけた。日本が参加を許された1952(昭和27)年のヘルシンキオリンピックでは全盛期を過ぎてメダルには届かず、NHKのアナウンサーは涙声で「古橋を責めないでください」と中継した。引退後は母校・日本大学の教授や日本体育協会の会長、国際水泳連盟副会長などスポーツ界の要職を歴任、晩年は日本オリンピック委員会(JOC)の会長も務め、イタリアの世界選手権を視察中に急死した。浜松市には立派な「古橋廣之進記念浜松市総合水泳場」が建つ。

 ひで子さんは「古橋さんは長兄の茂治と雄踏小学校の同級生でした。まだ有名になる前、学校に来たのを見ましたよ」と振り返る。

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