ひで子さんが語る“戦前の袴田家”巖さんはどんな弟だったのか【袴田事件と世界一の姉】

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「東大を首席で卒業した」と話す巖さん

 ひで子さんは4月16日、浜松市復興記念会館で行われた恒例の「袴田事件がわかる会」(袴田さん支援クラブ主催)の挨拶で、「私は来たかったんですけど(集会から)締め出しを食らっていましてね」と笑わせた。

 弟の最近の様子について、「巖は4月から少し変わりました。『東大を首席で出た』って言うんですよ。それで学校巡りしているんです。今まで乗らなかった方の車にも平気で乗ったりする。聞き分けがよくなりました。それまでは私の言うことなんか聞かなかった。でも最近は『誰誰が(マンションの)下で待っているよ』と言うと、『あっ、そう』と降りていって素直に車に乗るんです。ものすごく変わってね。元に戻ることもありますが、いい傾向です。完全に治ることはなくてもこのくらいでいいかと思っています。再審もいい方向へ行っていると思います。私も100歳くらいまでは大丈夫だと思います。頑張りますのでよろしく」と朗らかに語った。

 オミクロン株の感染を用心した周囲の助言で、自宅近くの集会への出席も控えていたひで子さんが大勢の前に登場するのは久しぶりのことだった。参加者たちも安心した様子で拍手していた。

 この日の講師役のゲストは、東京拘置所で巖さんを見守っていた元刑務官で、現在は作家の坂本敏夫氏だった。「出会った時、無実だと感じました」と語った講演内容については、機を見て紹介したい。

 ひで子さんは後日「巖は拘置所でおかしくなってから、『東大を首席で出た』とか言ってましたね。『まだ大学に俺の席があるはずだ』なんて言うんです。久しぶりに言い出したから、またかと思っていました」と話してくれた。

 巖さんが「東大を出た」「大学に席がある」などと言い出した後、「見守り隊」の猪野待子さんに連れられて静岡大学や静岡県内の私立大学を見学したそうだ。

 再び「大学に席がある」などと言い出した彼が一体何を考えているのかは想像もつかない。中学校を出てから就職して働いた後、プロボクサーの道を進んだ巖さん。ひょっとすると、自分がとんでもない冤罪に巻き込まれたのは、大学などで受けられる教養が足りなかったからだと思うようになったのだろうか?

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