小菅刑務所を造ったのは24歳の天才建築家と受刑者だった 意外な名建築の歴史

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小菅刑務所(東京都葛飾区)

 地元の人にとっては昔から日常的に目にしているので、あまりありがたみを感じなかったり、せいぜい「ちょっと変な形だな」という程度にしか思えなかったりするけれども、実は「名建築」として高い評価を得ている――そんな建物が全国各地に存在している。特に1960年代~80年代、日本経済が右肩上がりで成長していた時期に作られた建物の中には、地元の人も価値を忘れがちだけれども、好きな人にとっては堪らないモノがある。

 長年、建築や設計関連の仕事に携わってきた小川格氏の著書『日本の近代建築ベスト50』の中から、「身近にある意外な名建築」をいくつかセレクトしてみよう。

 第1回目は事件絡みのニュースでよく耳にする地名「小菅(こすげ)」に立つ名建築。何と100年近く前の「作品」である(以下、同書より)。

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 美しい白鳥が飛び立とうとしているような建築。これが刑務所のために建てられた、しかも今から100年前の建築とはとても思えないものだ。

 これを設計したのは蒲原重雄(かんばらしげお)(1898~1932年)。

 1922(大正11)年、東京帝国大学建築科卒業、司法省に就職。翌1923(大正12)年、関東大震災により刑務所倒壊。

 1924(大正13)年、蒲原の設計により着工、5年後の1929(昭和4)年、竣工。

 1932(昭和7)年、結核により逝去。享年34。

 この小菅刑務所が処女作にして遺作。これを造るためにこの世に送られ、できたら去ってしまった。この白鳥のような建築は、みずから空高く舞い上がり飛び去るために造られたのか。

 東京駅を設計した辰野金吾は、明治時代を代表する建築家だが、1919(大正8)年に亡くなっている。翌1920(大正9)年、東京帝国大学を卒業した学生たちが第1回分離派建築展を開き、自由な造形を謳歌して明治建築と訣別し、大正建築を宣言した。蒲原重雄はこの分離派世代より2年遅れて東京帝国大学を卒業している。

 興味深いことに蒲原の同級生に、のちに丹下健三を押し上げて日本のモダニズムを強力に推進した岸田日出刀がいた。

 つまり、蒲原は分離派に2年遅れ、まさにモダニズムに入ろうとする境界線に生きた。分離派の建築は曲線を特色としていたが、蒲原の建築は直線だけである。しかも、直線と直線が鋭く交わる鋭角的な造形である。

 こんな造形を残した建築家は古今東西、他にまったく見当たらない。じつに不思議な感覚である。時代を切り開くような、明治の分厚い壁を切り裂いて次の時代へと進んでゆく砕氷船のような感覚を持っていたに違いない。

 東京駅はこの刑務所より15年前に竣工しているが、その時、構造を新しい素材鉄筋コンクリートにするか煉瓦造りにするか、迷いがあったといわれている。しかし、辰野金吾は、まだ鉄筋コンクリートを信用できず、手慣れた煉瓦造りを選んだ。

 それから15年。関東大震災により煉瓦造りの房舎をすべて失った小菅刑務所は迷わず鉄筋コンクリートを選んだ。関東大震災が鉄筋コンクリートという近代建築の第二幕を開く号砲だった。

 東京駅は明治の集大成、小菅刑務所は大正の落し子。二つの建築は、大正という15年の歳月の始まりと終わりを象徴する建築だともいえる。

 蒲原が大学を卒業して司法省に入ったのは23歳、翌年に関東大震災があり、その次の年には着工している。つまり、この建築の設計に着手したのは、関東大震災の直後、卒業したばかりのまったく未経験の24歳の若者だったのである。

 しかも、工事を担ったのは、ここに収容されていたまったく建築経験のない受刑者たちだった。

 24歳の若い建築家の設計した刑務所を受刑者たちが力を合わせて造る、その不思議な情景を想像してみたい。

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 現在、ニュースでよく映る東京拘置所は、この小菅刑務所の近くに建てられた新しい建物である。気軽に立ち寄れるようにはなっていないが、たまに開催されるイベントの際には公開されることもあるという。

小川 格(おがわいたる)
1940(昭和15)年東京生まれ。法政大学工学部建築学科卒。新建築社で「新建築」の編集を経て、設計事務所に勤務。相模書房で建築書の出版に携わった後、建築専門の編集事務所「南風舎」を神保町に設立、2010年まで代表を務めた。2022年1月現在は顧問。『日本の近代建築ベスト50』が初めての著書。

デイリー新潮編集部

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