まるで野球漫画だ!“ミラクル快進撃”で甲子園出場を果たしたチーム列伝

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 トーナメントの一本勝負の高校野球は、何が起きるかわからない。夏の甲子園をかけた地方予選でも、大本命が不覚を取り、それほど前評判の高くなかったチームが“ミラクル快進撃”を見せて、まるで野球漫画のような展開で、甲子園への切符を手にした快挙も少なくない。

武蔵の好敵手にちなんで“小次郎”

 都立校で史上初の甲子園出場を実現したのが、都内有数の進学校としても知られる国立である。ノーシードで臨んだ1980年の西東京大会、国立は1回戦から武蔵村山、武蔵村山東、武蔵といずれも“武蔵”の校名のチームを下したことから、宮本武蔵の好敵手・佐々木小次郎にちなんで“小次郎”と呼ばれた。

 だが、この時点では「4回戦まで進んでシード校と対戦しよう」(名取光広主将)が目標で、もちろん甲子園の「こ」の字もなかった。

 その4回戦も、エース・市川武史が錦城を3安打完封。さらに準々決勝では、佼成学園と延長18回1対1の引き分け後、再試合で6対3と下し、新聞に“国立旋風”の文字が躍った。

 市川は168センチ、60キロと小柄ながら、縦横2種類のカーブを武器とする頭脳的投球で、4日連続登板となった準決勝の堀越戦も5安打完封。ついに部史上初の決勝戦に駒を進めた。

 春の都大会を制した日大三をはじめ、有力校が次々に敗退。ノーシード勢が4強を独占する大波乱のなか、甲子園まであと1勝となった国立は、決勝の駒大戦でも、0対0の9回に市川のスクイズと西尾裕の三塁打で2点を勝ち越し。その裏の駒大の最後の攻撃も、市川が投ゴロと2者連続三振に切って取り、創部34年目で初の甲子園出場を決めた。

 8試合81回を一人で投げ抜いた市川は「呆然としています。信じられません」と、最後の打者を打ち取った直後も、ガッツポーズをすることなく、マウンドで足を広げたままだった。

 市川はその後、東大に進学し、早大を完封するなど、大学でも“赤門旋風”の立役者になった。

「迫を甲子園に連れていこう」

 交通事故で重傷を負った3年生を「甲子園に連れていこう」と結束し、ノーシードから甲子園初出場をはたしたのが、2001年の弥富(現愛知黎明)だ。

 悪夢のような事件が起きたのは、同年5月。練習試合で静岡県に向かっていた弥富ナインのマイクロバスにダンプカーが突っ込み、鈴木保監督をはじめ23人中22人が負傷。中でもショートを守り、攻守の要だった3年生・迫武志は左足を骨折し、全治1年と診断された。

 当初は「もう(夏は)ダメだ」と落ち込んだナインだったが、「迫を甲子園に連れていこう」と心をひとつにして猛練習に励み、夏の県大会に臨んだ。

 中京大中京、愛工大名電など有力校が次々に姿を消すなか、ノーシードの弥冨は、準々決勝の大府戦で4点差、準決勝の享栄戦で6点差を終盤に大逆転し、甲子園まであと1勝と迫る。ナインはピンチになるたびに「みんなで甲子園に行こう」と励まし合った。

 決勝の豊田西戦も、1点を追う3回に3番・近藤誠の満塁本塁打で逆転し、5対6と再びリードを奪われた8回にも連続タイムリーで再逆転。そして、7対7の9回裏、1死一、二塁で4番・山口雄矢の当たりは併殺コースの遊ゴロとなったが、負傷を押して一塁コーチに立った迫が見守るなか、打球は遊撃手の前でイレギュラーバウンドし、奇跡のサヨナラタイムリーに。開校38年目で初の甲子園切符を手にした。

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