「背面跳び」を生んだフォスベリー 世界に衝撃を与えた技の誕生秘話(小林信也)

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 1968年、標高2200メートルを超えるメキシコシティで開かれたオリンピックは、記録破りの大会となった。陸上の男子で10種目、女子7種目で世界記録が生まれた。

「神が舞い降りた」とさえ形容された男子走り幅跳び、ボブ・ビーモン(米)が8メートル90の世界新記録で優勝した。従来の記録を50センチも更新する信じられない快挙。これは91年にマイク・パウエル(米)が8メートル95を跳ぶまで23年間抜かれなかった。男子100メートルではジム・ハインズ(米)が初めて10秒の壁を破る9秒95で走った。この記録も83年にカルビン・スミス(米)が9秒93をマークするまで15年間更新されなかった。スミスの記録も高地の米国コロラドスプリングスで出されたもの。平地でこれを上回るのは88年にカール・ルイス(米)が9秒92を出した時。実に20年かかっている。ビーモンとハインズの記録は、高地による気圧が影響したと考えられている。

 だがもう一つ、燦然と輝く走り高跳びの偉業は、高地とは関係ない、ある選手のひらめきと挑戦が生み出した“発明”だった。

 男子走り高跳び。バーの高さが2メートル22センチに上がった時、優勝争いは3人の選手に絞られていた。ソ連のワレンティン・ガブリロフ、アメリカのエド・カルザースとディック・フォスベリー。人々の注目は、この中の誰が勝つかというより、当時主流だったベリーロール(体の前面、胸と腹とでバーを巻き込むようにして跳ぶスタイル)を、変てこな背面跳びが凌駕するかどうか、そこに集まっていた。ガブリロフとカルザースはベリーロール、そしてフォスベリーが奇妙な跳び方の「開拓者」だった。

 長い間、走り高跳びは、ハサミ跳び、正面跳び、ウエスタンロール、ベリーロールといずれもバーに正対して跳ぶのが常識だった。踏み切った途端、バーに背を向ける背面跳びなど誰も想像しなかった。「背面跳び」という名前さえまだなく、フォスベリー・フロップ、つまり「フォスベリーの跳び方」と呼ばれていた。フォスベリーが最初に後ろ向きでバーを越えた時、「反則じゃないか」と議論が起こった。それほど「ありえない」跳び方だった。だが、ルールブックをどう読み返してもこれを違反とする規定はなかった。

ひらめきを手がかりに

 フォスベリーがこんな跳び方を思いつき、周囲の好奇な眼差しに屈せず果敢に挑戦したのは単純な理由からだった。普通のベリーロールやウエスタンロールがしっくりこなくて、大した記録を出せなかったのだ。オリンピックに出る可能性さえ低かった。

 そのフォスベリーが、ある時失敗ジャンプをして、体の前面でなく背面でバーを越える格好になった。無様な失敗だが、なぜかバーを見事に越えていた。その時、フォスベリーはふしぎな手応えを感じた。

(後ろ向きの方が、楽に高く跳べるのではないか!?)

 人は何気ない瞬間をうっかり通り過ぎることが多い。あれっ?と感じたひらめきを手がかりにできるかどうか。それが人生を大きく左右する場合がある。人との出会いも同じだろう。フォスベリーはたった一度の失敗にヒントを得て、思いがけない栄光と歴史的な変革を成し遂げた……。

 建築技師だったフォスベリーは、物理学的な考察もして、背面跳びがベリーロール以上に高く跳べる理に適ったスタイルだと計算した上で採り入れたと語られている。これについては本当かどうか。それは奇異な跳び方を世間に承認させるために必要な裏付けだったかもしれない。あるいは、いかにも気の弱そうなフォスベリーが、柄にもなくそんな大胆な挑戦をやってのけるため、自分自身を鼓舞するのに必要だったのかもしれない。

 背は高いが、痩せてヒョロっとしたフォスベリーに王者の貫禄はない。逞しさもない。そんなフォスベリーが、世界を変える大事をやってのけた。

 ガブリロフは2メートル22センチを跳べず銅メダル。カルザースは2メートル24センチに上がったバーをクリアできなかった。フォスベリーがこれを跳べば金メダルだ。

日本のお茶の間では

 私はメキシコ五輪の時、小学校6年生だった。フォスベリーの跳躍はビーモンの衝撃とともに強く刻まれている。だがフォスベリーは「困った人」の印象が強い。メキシコからの衛星中継は日本では朝だった。ちょうど学校に出かける時刻。もう出ないと遅刻する。でも、斬新な跳び方をするフォスベリーが今から跳ぶ。少年の私はそれを見ずに出かけることができなかった。すぐに跳ぶだろう、結果を見てから出よう、固唾をのんで見守るが、フォスベリーはなかなか助走を始めなかった。右足を前に出し、前後に体を揺さぶって、さあ出ろ、さあ出ろと私は心の中で叫ぶが、ためらってばかり。ようやく走り出し、見事バーを越えた時には快挙の感動と遅刻の恐怖が入り交じっていた。成功を確認すると私は血相を変えて家を飛び出した……。

 それから走り高跳びは、男子も女子もすっかり背面跳びが主流になった。気の弱いフォスベリーはとんでもない発明をし、陸上の世界に革命をもたらした。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

週刊新潮 2021年5月27日号掲載

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