五輪直前に自殺「円谷幸吉」は悲劇のランナーか 27年後の後日譚(小林信也)

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 円谷幸吉の名前を日本中が知ったのは、東京オリンピックのマラソンレース終盤。“裸足の王者”アベベが1位でゴールテープを切った後、テレビ画面が2位で競技場に入ってくる選手を映し出したときだ。

 当時の中継態勢では、トップを走る選手を映すのが精いっぱいで、後続の様子は伝えられなかった。カメラは独走するアベベを映し続け、2位以下は38キロ地点の情報程度だった。そのため、国立競技場のスタンドで固唾を呑んで2位の帰還を待つ観客とテレビを凝視する多くの日本人は、日の丸を胸につけたランナーの姿を認めて驚き、昂奮した。レース前は誰ひとり、アベベに続いて円谷が帰ってくるとは想像していなかった。優勝候補の一角に挙げられた君原健二か、前年にアベベの世界記録を上回る2時間15分15秒8で走った寺沢徹への期待が高かった。円谷は3番目の男だった。

 円谷のメイン種目は1万メートル。陸上初日に6位入賞を果たした。1週間後、マラソンにも出場したのだ。

 1年前、1万メートル代表に決まった円谷のスピードに目をつけ、マラソン挑戦を勧めたのは日本人金メダリスト第1号の織田幹雄だった。当時、日本陸連の強化本部長。織田の肝煎りで円谷が初めてマラソンを走ったのは、1964年3月の中日マラソン。東京五輪のわずか7カ月前だ。初マラソンを2時間23分31秒で走り5位に入る。その3週間後、五輪最終選考会を兼ねて本番と同じコースで行われた毎日マラソンで円谷は2時間18分20秒、優勝した君原に次ぐ2位でマラソン代表に選ばれた。

 東京五輪は生涯3度目のマラソンだった。

スタート直前の表情

 東京五輪の秋、私は小学校2年生だった。それでも、2位で競技場に入ってきた円谷の“衝撃”をよく覚えている。円谷のすぐ後ろから、イギリスのヒートリーが来た。背後にヒートリーを見たときの“戦慄”は忘れない。あのような背筋が凍る感情を体験したのは初めてだった。

「ヒートリーが来た、円谷危ない」、実況アナウンサーのそんな叫びが耳に残っている。東京五輪は、「戦争から復興した日本の姿を世界に見せる」「日本選手の活躍で日本人が世界に劣らぬ優秀な国民であることを知らしめ、希望と勇気を与える」といった目的があったといわれる。だが、少年の心には、まったく逆の現実が刻み込まれた。私が咄嗟に案じ、予期したとおり、力強い走りのヒートリーは先行する円谷をアッという間に抜き去った。

「銀メダルか、銅メダルか、日本の名誉をかけて、日本の円谷危ない、ヒートリーが追った、ヒートリーが抜きます!」(実況音声)

 強い外国人、弱々しい日本人。あまりにも色鮮やかな対比が、少年には刻み込まれた。それは底知れぬ敗北感であり、劣等感だった。戦争を知らない子どもたちが初めて体験した“敗戦”だったかもしれない。その円谷が、68年のメキシコ五輪を前に自ら命を絶った。

〈幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません〉

 遺書があった。日本中が深い悲しみに沈んだ。

 ケガで走れない。そして、慕い続けながらオリンピックのために破談にされた恋人が身を引くように結婚したと知らされた絶望……。

 私は約30年後、NHK「オリンピック100人の伝説」というテレビ番組の仕事をする機会に恵まれた。過去の映像で構成する短いドキュメンタリーのナレーション原稿を書くのが務めだった。悲劇的な逸話に彩られた円谷幸吉の生き様を、私はどう表現できるだろう。暗い気持ちで映像を見ていて、アッと叫ぶ瞬間があった。東京五輪マラソン、スタート直前の光景だ。数十人の選手たちがスタートラインで号砲を待っている。無表情のアベベがいちばん後ろに並ぶ。集団の中ほど、他の選手に囲まれて円谷は立っていた。その円谷が、笑っている。運動会の朝、走ることがうれしくて笑みをこぼす少年のように、ひとり笑っている。その笑顔を見たとき、円谷を悲劇の長距離ランナーだと決めつけるのは違うのではないか、そう感じた。そして、温かい気持ちに包まれた。

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