「塚原光男」月面宙返りを生んだものは(小林信也)

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回るより捻る意識

 一緒に食事をしながら、長男でやはり高校総体2連覇、アテネ五輪男子団体金メダリストの塚原直也が、

「あの月面宙返りって、未完成というか、失敗に近い演技だよね」、サラリと言った。そんなことが言えるのは直也だけだろう。「どうして?」、光男が反問する。

「飛び出しでもっと上に向かって速く回転すれば、余裕を持って演技を完了できる。捻り終わってからスッと下りられる。なのに飛び出しがすごく遅い」

「あれはさあ」、光男が声を上げる。「回転してすぐ捻るなんて、それまで誰もやっていないから、回るより捻る意識が先にあって、それでどうしても回転速度が遅くなったわけだよ」

 飛び出しが低く遅いため、着地寸前にやっと両足が着く感じになる。だが、そのおかげで、まるで月面をひらひら舞うようなイメージが醸し出された。

 宇宙遊泳を思わせる浮遊感。私たちは異次元の時空に引き込まれ、言葉にできない衝撃と興奮を味わった。

 金メダルを獲ったから凄いのではなく、あの月面宙返りが世界を魅了したのだ。

 直也の指摘どおり、最近の月面宙返りは動きが素早い。当時とは違う。少し考えて、光男が気を取り直すようにつぶやいた。

「そうか、本当の月面宙返りは、いまだに僕しかできないってことだな」

 直也も今度はただ笑って父を見つめていた。

 体操に目覚めた瞬間っていつですか? 訊くと光男はポツリと答えた。

「蹴上がり、だね。ある日スッと蹴上がりができたとき、体操の身体の使い方がわかったんだ。力でもない、理屈でもない。蹴上がりの感覚が体操の原点ですよ」

 楽しむ心、新しい技に挑む冒険心。そして運命の恋人への強い思いが月面宙返りを生みだした。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

週刊新潮 2020年10月29日号掲載

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