「旧華族」の女性たち…民間人との結婚・離婚が大ニュースに

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“仮に天皇さまが皇族全体の名誉のために離婚を思い止まれといわれても”

〈終戦後、貴方は貴方、私は私、夫婦とは単なる男女の同居という家庭が一部の階級には相当あるらしい。そんな家庭生活を喜ぶ夫婦ならばそれで済むことであるかも知れぬ。しかし私には向かない。(中略)何か自由ということのはき違えではないだろうか。自由ということを掘り下げてゆくと、真の自由は自律的には随分不自由なものではなかろうか。それが私が離婚を決意した理由のうちの一つである〉

 彼は最後に記者にこう語る。

「あの時から数日は、眠られぬベッドの中で幾度か自殺の衝動にもかられました。しかし離婚の決意は冷静な判断の上に立って決めたものであります。(宮内庁の)田島長官にも“仮に天皇さまが皇族全体の名誉のために離婚を思い止まれといわれても、私はお断り申します。そして日本国を離脱して謹慎します”と申しておきました」

「尼になりたい」という娘の談話まで掲載された記事の反響は凄まじかった。

 華頂華子の心を奪った戸田豊太郎とは、どんな男なのか。

 毎日新聞は、旧華族出身の女性、徳川喜和子に取材することによって、この疑問に答えている。

 前年まで戸田の妻であった徳川喜和子は、離婚を報じる新聞を見た時、すぐに前夫が一役買っているに違いないと直感したという。

〈私と華頂さまはイトコ同士。そんな関係で華頂家の事情もよく知っていたからです。戸田は最近方々のダンス・パーティーなどに華子夫人を連れ歩いていたようでした。(中略)華子夫人が兄閑院さまのご忠告を聞きいれて賢明に振舞われるのが最善の途かと存じます。私の手痛い経験からみましても……〉

 あの男は女たらし。15代将軍慶喜の孫娘は、そう言わんばかりである。

 2年後、華子は戸田と再婚し、不倫を成就させる。一方の華頂博信も再婚して第二の人生に船出するのだが、戸田に慰謝料の支払いを求めて提訴。31年、東京地裁は「原告に50万円の慰謝料を支払うべし」との判決を下す。

「博信氏は敬虔なクリスチャンで大変に無口な人でした。華子さんにとっては面白みがなかったのも無理はありません。皇太子妃候補になってもおかしくない、綺麗なお嬢さん(治子)がいたのですが、この一件で、そのような話は全く出ませんでした」(皇室ジャーナリストの河原敏明)

夫人に関する困った噂が流れております

 アプレの妹に手を焼きながらも、閑院純仁は手記などを発表して華子を弁護していたが、華子が戸田と再婚すると怒り心頭に発し、一時は兄妹の縁を切った。

 妹の離婚にすっかり気分を害した純仁であるが、その5年後、まさか自分の妻が「ノラ3号」になるとは思いもしなかった。

 閑院直子は五摂家の一つ、一条家から、大正15年、陸軍騎兵少尉として近衛騎兵聯隊に勤務していた純仁(当時は春仁王)のもとへ嫁いだ。純仁24歳、直子19歳の夏である。

 が、軍事教育を受けた夫と開放的な気質の妻は折合いが悪く、子宝にも恵まれなかった。純仁の述懐によれば、「結婚して約8年の間、夫婦の間は冷ややかであった」という。

 では、9年目から仲睦まじくなったのかというと、そうでもない。

 終戦後の23年、純仁は日記にこう記している。

〈直子は予の意を汲み得ないところも少なくなく、予として不満もあるが、しかし彼女はかわいい。夫婦円満だ。昔のことを考えると、夢のようである〉

 元宮様の常として、閑院純仁も様々な商売に手を出すが、殿様商法ゆえ、どれもパッとしない。

 そこへ小田原女子学院(現在の小田原女子短大)の設立話が持ち込まれた。当初は渋っていた純仁だが、結局、土地の提供と妻の名誉学長就任を認める。

 開校は31年4月であるが、ここで登場してくるのが、教務課長の高橋尚民である。47歳の直子に対し、高橋は11歳も年下の36歳であった。

 閑院家には、戦時中、純仁の部下だった西口加平という忠義な使用人がいた。

「小田原で巷に直子夫人と高橋教務課長に関する困った噂が流れております」

 31年夏、不穏な噂を耳にした西口は純仁にそう報告する。

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