知られざる歴史の真相を解くキーワード「女系図」とは? 【家康は、嫁の実家の怖さを知っていた】
平家は滅亡していない! 「今上天皇」にまでたどりつく
「おごる平家は久しからず」
『平家物語』といえば、「祇園精舎の鐘の声」と共に、このフレーズがすぐに出てくる人も多いだろう。日本人にはお馴染み、滅びの美学満載の古典の傑作だ。
だが、「平家は滅亡していません」と語るのは、『女系図でみる驚きの日本史』を上梓したばかりの大塚ひかりさん(古典エッセイスト)だ。
「滅亡したのは、平清盛と彼の息子たち、それに彼の兄弟の男系の子孫に限った話です。兄弟でも源頼朝を助命した、池禅尼腹の頼盛は助かっていますし、名家に嫁いでいた清盛の娘たちは、それぞれ生きのびていて子を産んでいる。たとえば花山院兼雅妻となった娘の、やしゃごにあたる談天門院忠子は、後宇多天皇との間に皇子をもうけ、その子が後醍醐天皇となりました。また、その他の娘の血筋からも、複数天皇が誕生していて、それは今上天皇にまでたどりつきます」
我々がよく目にする系図は、父親が誰かに着目した男側の系図、すなわち「父系図」であることが多く、それでは歴史の半分しか分からないのだ。
「女系図」を意識していた「徳川家康」は、嫁の実家の怖さを知っていた
たとえば滅亡したといわれる、古代の蘇我氏も、女の側に目を向けると、実はまったく滅亡しておらず、藤原氏の系図へと書き換えることができる。
「一夫多妻の上、通い婚で、生まれた子供は母方で育つ、母系的な古代社会では、同じきょうだいでも『母』の地位や資産によって、出世のスピードや命運が決まるのはもちろんのことでした。当時は、娘が親の家・土地を相続することが多かったので、母親の財力は、しばしば娘に受け継がれていました」
蘇我氏が力をもてたのも、母方の物部氏の「母(いろは)が財(ちから)」(『日本書紀』)ゆえだとか。あの藤原道長も、逆玉にのったがゆえに、出世の糸口を掴んだ。
そんな大塚氏をして「女系図が作れない時代」といわしめるのが、江戸時代だ。
「徳川将軍の生母は、百姓、八百屋、魚屋の娘に、死罪になった者の娘までいて、高貴な人が少ないんです。だから系図もさかのぼって作れない。これはそれまでの時代にはなかったことです」
誰かが意図的にそうしたのではないか、少なくとも、歴史書を愛読していた徳川家康は、嫁の実家が権力争いに口を出す怖さを知っていたはずと、大塚氏は指摘している。権力者の御家騒動は大乱につながる。「女系図」を意識したことが、徳川幕府が長続きした本当の理由だったのかも?!