天皇家の血筋を守るため、暗躍した秘密組織「陸軍中野学校」とは?【戦争と日本人(4)】

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

 全国戦没者追悼式で、天皇陛下は次のようにお言葉を述べられた。「戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」――。5月に御代替わりが行われ、初めての終戦記念日。しかし74年前の盛夏、その「皇統」が途絶えるとの危機感を抱え、密かに行動していた臣下の者たちがいた……。

 ***

 敗戦の気配が色濃く漂い始めた1945年8月、昭和天皇の戦犯容疑はもはや避けられないと軍部では憂いていた。そして、皇族方に何かあった場合に備え、「皇統護持」の必要性、すなわち天皇家の「然るべき血筋」を守るべきと考える軍人たちが多くいた。そのためには皇族の身柄を匿わなければならない。陸軍、海軍の将校の間では、提案を受け「計画書」が作成されたケース、実際に命令が下されたケースまであった。

 ただし結論を先に述べれば、こうした計画群は曖昧なまますべて頓挫する。昭和天皇はポツダム宣言受諾の姿勢を示し、陸軍大臣・阿南惟幾(あなみこれちか)も「聖意」に従うとの態度をとったからである。つまりこれ以降、皇統護持作戦は、「叛乱(はんらん)」と見做されることになったのだ。しかしその中で8月15日を越えてなお、隠匿の候補地をも定め、準備していたグループがいた。彼らが担ぎ上げたのは、明治天皇の曾孫・北白川宮道久王(当時8歳、上皇の再従兄〔はとこ〕にあたる)。陸軍次官秘書官のツテを頼り、一団は道久王を隠匿する候補地、新潟・六日町(むいかまち)へと向かっていた。

〈猪俣少佐に、勤務先の兵器行政本部からトラックを1台都合させると、それに約1カ月分の食糧と毛布その他の寝具、野営用の天幕まで積みこんで六日町組は(東京の)石神井を出発したのである。途中、三国峠で道を間違え、法師温泉へ迷いこんだり、豪雨で橋が落ちて遠廻りしたので、六日町の今成拓三宅をおとずれたのは8月26日の昼であった〉(畠山清行氏著『陸軍中野学校 終戦秘史』)

 迅速かつ秘密裡。この動きも早や収束するのだが、計画を推し進めていたのが教育機関「陸軍中野学校」の出身者たち。その性格上、戦時下においては秘匿(ひとく)され、戦後も長らく明らかにされなかった秘密組織である。

 ***

「陸軍中野学校」――。その設立目的は、諜報謀略を専門とする特殊工作員(スパイ)の養成にあった。戦後教官の一人でもある秋草俊所長(中佐)は、1期生を前にこう述べている。

〈諸君は、この養成所で1年間の訓育をうけたのち、たぶん、ソ連、中国、あるいは英米と、世界各国に派遣されるだろう。そして、その地に骨を埋める覚悟で(一般市民として)定住し、武官にさぐりえない情報をさぐるのである。しかも、これは公的な機関ではないから、絶対に秘密を要し、諸君の身分の秘匿も今日ただいまから始まる〉(以下、〈〉内は畠山清行氏『秘録 陸軍中野学校』より)

 学課は諜報、謀略、防諜(ぼうちょう)、宣伝などの他、政治、経済、思想、宗教、等々多岐にわたった。戦争論、占領地行政、語学、通信技術なども学んでいる。外部講師として、甲賀流忍術14世名人の藤田西湖が「忍者の道」を説いた。

〈忍者はどんな苦しみをも乗り越えて生き抜く。足を切られ、手を切られ、舌を抜かれ、目をえぐり取られても、まだ心臓が動いているうちは、ころげても敵陣から逃げ帰って、味方に敵情を報告する。生きて生きて生き抜いて任務を果たす。それが忍者の道だ〉

 前科十何犯の掏摸(すり)がその技術を実演し、「偽騙(ぎへん)術(変装)」を講義したのは新派の女形だった。こうして軍服を着用しない「秘密戦士」が養成されていった。

 昭和17年、日本陸軍は南方ジャワの攻略を仕掛けている。目的は石油などの資源獲得だったが、オランダ軍が破壊工作を繰り返し対抗していた。この時、敵側のラジオ局に成りすまし、ニセ放送でオランダだけでなく英国までをも攪乱したのが、中野学校出身者たちだ。敵方が発令した命令の取り消しや、日本軍のありもしない進軍、時を先駆けての降伏情報と、ニセ放送は続いた。後に判明したことだが、日本の大本営でさえその放送を真に受けていたという。

 また、中野学校出身者で組織された機関、秘匿名「ヤマ」は、要人の監視活動もしていた。

〈「ヤマ」の工作は着々とすすめられていた。某々ホテルのボーイや事務員、在日外国大公使館の自動車運転手や門衛として、幾人かの下士官がもぐりこんでいったのである。新聞記者、会社員、貿易商社員、クリーニング屋のご用聞きから、東京周辺主要駅の改札係と、それぞれ潜行しては成果をあげていた〉

 身分を偽り他人に成りすましての特殊工作。戸籍の改竄(かいざん)や卒業証書の偽造、さらには「傷痍軍人」を装うため、歩き方をも演技していたケースも。成功例としては、親米派として知られた吉田茂邸への住み込みがある。

 すでに女中として潜入していた女性工作員の「遠戚の者」で、「マラリアを患(わずら)い帰還した」という設定だった。男手が不足していた時代。吉田の信頼を得た「働き者の東」は、吉田から封書の届けを頼まれるまでになっていた。

〈東は、工作員とすれ違った瞬間に、手から手へ手紙を渡すのだ。東はそのまま高野氷店にいって、冷蔵庫用の氷を買うのである。

 一方、手紙を受け取った工作班は、ただちに(近くに用意した)拠点の2階へ持っていって開封し、写真にとり、封をしてアイロンで糊(のり)のしめしをかわかして、元の位置まで持ち帰るのだ。これが毎回、10分間で完全におこなわれ、氷を買って帰る東と、またまた自転車のすれ違いに、彼の手へ手紙が戻るという仕組みである〉

 こうして得た文書の中に、首相・近衛文麿宛ての「一刻も早く終戦を」と訴える上奏文があった。これが問題視され、1945年4月15日、吉田は憲兵隊に検挙されることとなる。

 中野学校の卒業生は一説によると2500名余という。戦後はGHQの対日工作機関「キャノン機関」の破壊や、インドネシア独立戦争でも暗躍したとも伝えられる。現在、中野駅近くのその跡地には、明治大学、帝京平成大学が開校。70年前と同様に、理想に邁進する若者たちが闊歩している。

デイリー新潮編集部

2019年8月17日掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。