改めて「人は2度死ぬ」を考える 映画「リメンバー・ミー」を観て(古市憲寿)

  • ブックマーク

Advertisement

「人は2度死ぬ」という有名な考え方がある。1回目は生物学的な死、2回目は記憶上の死というわけだ。

「リメンバー・ミー」は、2度の死をテーマにしたディズニー映画だ。主人公の少年は死者の国に迷い込んでしまう。その世界では、死んだはずの者たちが楽しく暮らしているのだが、全ての生者から忘れられてしまうと2度目の死が訪れる。

 よくできた映画だと思うのだが、不満があるとすれば悪人の位置づけが不明なこと。「リメンバー・ミー」のような死者の国があれば、アリストテレスから仏陀、イエス・キリストはもちろん、ジョン・レノンやエルビス・プレスリーまで古今東西の有名人が暮らしているはずだ。教科書に載るような偉人は、死者の国で永遠の命を手にすることになる。

 では、悪名高き人々はどうなるのか。ホロコーストを実行したアドルフ・ヒットラーのような悪人の存在もまた、人類は忘れることがないだろう。

 誰も殺さず、誰にも迷惑を掛けず、必死に毎日を生きた凡夫たちがすぐに2度目の死を迎え、何百万人の命を奪った独裁者が永遠に生き続けるのなら、随分と死者の国は不平等である。

 もっとも教科書に掲載され、後世の人々が名前を記憶することと、一般的な意味でいう「忘れない」には大きな隔たりがあると思う。

 日本で「卑弥呼」や「聖徳太子」の名前を知らない人はいないと思うが、彼らの人となりは謎だ。歴史書に残された記述は極めて断片的で、彼らが単独の人物として実在したかさえ怪しい。

 現代史でも同じだ。アジア太平洋戦争の主導者の一人である東条英機には多様な評価がある。戦時中、道ばたのゴミ箱を漁って、庶民の経済状況を「視察」していたというのは有名な話だが、その逸話が残されているのは新聞記者を同行させていたから。オープンカーでの移動を好んだ東条は、どのように自分がマスコミで報道されるかを意識した、メディア時代の宰相だった。

 ヒットラーにしたって、現代人がイメージする彼は、もっぱらナチス自身が製作した映像によるものだ。つまり最も勇ましく見えるように編集されたヒットラーを見せられているわけで、そこに普段の彼がいるわけではない。

 では21世紀になるとどうか。今度は有名人でなくても、膨大な情報が残される時代になった。本人のSNSはもちろん、他人が撮影した動画まで含めて、ほとんどの人はすでに卑弥呼以上の動静を未来の歴史家に手渡している。

 しかし情報が多すぎると、その個人を一つの像に結ぶのが難しい。「結局、どんな人だったの」と聞きたくなる。どんな人であっても、同世代に生き、実際に面識のあった人々が消えてから生々しく生きながらえるのは難しいのかも知れない。

 だからせめて覚えていようと思う。そしてその人を知る人と会った時には、何度でも話をしようと思う。その人がどんなふうに生きて、どんなものが好きで、どんな夢を見ていたのかを。生きている限り何度でも。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2020年8月6日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。