「史上初」女子たちのプレッシャー 光明皇后と孝謙(称徳)天皇

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 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ~んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第6回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!

人臣初の皇后となった光明子のプレッシャー

 宮子の人生を犠牲にしながら、しかし、藤原氏の躍進は止まりませんでした。

 宮子の生んだ聖武天皇(701~756)に、宮子の異母妹である光明子(701~760、母は県犬養橘三千代)が入内、藤原氏初、実質的には人臣初の皇后となるのです。

 ここに至る道も平坦なものではありませんでした。

『続日本紀』によれば、聖武の皇太子時代に入内した光明子は、724年に夫が即位してから3年後、727年閏9月29日に皇子を生みます。よほど藤原氏腹の天皇をつなげたかったんでしょう、この皇子は生後数十日という前代未聞の幼さで皇太子となります。

 ところが翌728年9月13日、皇子は死んでしまうのです。

 光明子をはじめとする藤原氏のショックはいかばかりか。

 その翌729年2月10日、前々から聖武天皇の母・宮子の称号に意見するなど、藤原氏にとって目の上のたんこぶだった長屋王が密告され、わずか2日後、王と正妃、正妃腹の男王4人が死に追いやられます(天平元年二月十二日条)。

 かくて同年8月24日、光明子は皇后に。数百年も昔に非皇族出身で皇后となったイハノヒメノ命の先例を出しての言い訳がましい宣命〈せんみょう〉を長々と述べての立后が行われるのです(天平元年八月二十四日条)。

 当時、即位資格のあった皇后には皇族が立つのが普通でした。

 そんな時代、光明子は実質的には臣下出身者初の皇后に立ったのですから、その風当たりは民間初のお妃となった美智子妃(当時)の比ではなかったでしょう。それも、県犬養氏腹の皇子・安積親王(728~744)がいる中、彼の立太子を阻止したい藤原氏による、光明子の即位を見据えての立后です(このあたりについては異説もあります)〈系図1〉。

 一族の欲望や敵対勢力の憎悪、国民の注視を浴びての立后とは、考えただけでも神経がすり減り、異母姉の宮子が36年間、鬱状態となった例が嫌でも思い出されます。

 幸い、光明子は、母・県犬養橘三千代譲りの政治力と精神力があったのでしょう。心を病んだ記録はありません。が、738年、38歳となり、これ以上、皇子の誕生は見込めぬと踏んだのか、皇女である阿倍内親王が21歳で女性初にして唯一の皇太子となります。のちの孝謙天皇です。彼女は退位後に再び即位して称徳天皇とも呼ばれます。通常、天皇の呼び名は死後つけられた諡(おくりな)ですが、彼女は生前、淳仁に譲位した際、“宝字称徳孝謙皇帝”という尊号が奉られます(※1)。それを二つに分け、はじめの在位の時は孝謙天皇、淳仁を降ろしたあとの在位の時は称徳天皇と呼ばれるのです。ここでは、孝謙称徳と呼ぶことにします。

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