「史上初」女子たちのプレッシャー 光明皇后と孝謙(称徳)天皇

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史上初・女性皇太子となった孝謙称徳のやばさの理由

 この孝謙称徳の立場は、これまた、母・光明皇后にまさるとも劣らぬストレスフルなものでした。

 なにしろ父・聖武には安積親王という県犬養氏腹の男子がいながら、権力の階段を駆け上がっていた藤原氏腹ということで、女ながらに異例の立太子となったのです。

 それまでの女帝は基本的に皇后から天皇になるというルートを辿っていたため、女性の皇太子はいませんでした。それが彼女は、誰の皇后にもならぬ身で、男子である異母弟をさしおいて皇太子となったのですから、その風当たりは大変なもの。今で言うなら、悠仁様でなく愛子様が皇太子になるよりもさらに(女性皇太子の前例がないだけに)プレッシャーは強い。

 本人としては少しのスキャンダルも犯さぬよう、足をすくわれぬよう、薄氷を踏むような思いだったに違いありません。

 しかもこの時はまだ、名門・蘇我氏の血を引く元正太上天皇というゴッドマザーも生きている。光明皇后も皇太子・阿倍内親王(孝謙称徳)も、彼女に対する遠慮はあったでしょう。

 このゴッドマザーが死ぬのが748年4月21日(※2)。また、異母弟の安積親王は744年、17歳で死んでいます(天平十六年閏正月十一日条)。毒殺説もありますが不明です。

 こうして749年7月2日、孝謙称徳が32歳で即位します。

 この女帝の後世の評判はすこぶる悪い。

 父・聖武の決めた道祖〈ふなと〉王の皇太子の地位を廃したり、淳仁天皇の皇位を廃したりした上、死に追いやるというふうに、気に入らぬ者はたとえ天皇であっても処罰する一方、寵愛する僧・道鏡を法王に据え、あげくは皇位を譲るべく画策して失敗するなど、やばいところが多々あるからです。

 そのやばさは、彼女の政権の弱さに由来するものでもありました。

 彼女の皇太子時代から、女性皇太子を認めなかった橘奈良麻呂の謀叛、さらに母の光明皇后死後は、淳仁天皇の舅の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の勃発があるなど、その治世は不安定なものでした。系図を作ると、反旗を翻した男二人は、彼女の母方いとこに当たることが分かります〈系図2〉。ちょっと複雑な関係とはいえ、本来、力になってくれるはずの母方いとこが敵に回るというのは、つらいことだったに違いありません。

 そんな彼女と母の光明皇后が、大いに参考にしたのが中国・武則天の治世です。

 そもそも孝謙称徳が女の身ながら皇太子となるという発想も、武則天にならったものでした。武則天は女の身で皇帝になることを実現するために、「菩薩が方便として女身となるという『菩薩転女身』、いわば『方便の女身』説もしくは『菩薩の化身としての女身』説を利用したことが知られている」。母娘はこうした論理を利用して「女性皇太子を合理化」したというのです(※3)。

 武則天は四文字の元号を使ったことでも知られていますが、日本で四文字の元号を採用したのは、聖武と娘の孝謙称徳だけで、これも「光明皇后の意向によるとの見解がある」(※4)。光明皇后が夫の聖武に進言したとされる国分寺の建立(国ごとに寺を建立すること)も、武則天が州ごとに大雲寺(大雲経寺)を設置したのにならっています。

 特徴的なのは刑罰としての改名です。

 武則天は、夫である高宗の皇后だった王氏と淑妃の蕭氏を処刑後、それぞれ蟒〈もう〉(うわばみ)氏、梟〈きょう〉(ふくろう)氏、二人のいとこを蝮〈ふく〉(まむし)氏という姓に改めるなど、死後まで辱めたことで知られています(※5)。

 孝謙称徳も、道鏡を皇位につけようとした際、それを認めないという神託を持ち帰った和気清麻呂を別部穢麿〈わけべのきたなまろ〉と改名したり(※6)、橘奈良麻呂の乱後、処刑した黄文王は多夫礼〈たぶれ〉、道祖王は麻度比〈まとひ〉、賀茂角足は乃呂志〈のろし〉などと改名しています(※7)。それぞれ気狂い、マヌケ、のろまといった意です。

 こうした改名は先にも触れた彼女の治世の脆弱性とも関わるかもしれません。

 というのも、姓は天皇が与えるもので、「天皇が姓を与えることを、『賜姓(姓を賜う)』といった」(※8)からです。

 つまり賜姓は天皇の特権であり、屈辱的な改名はその特権の誇示でもあります。

 誇示しなければならぬほど、彼女の権力基盤は脆弱だったのでしょう。

 だとしても、こうした改名を採用したのは孝謙称徳だけというところからすると、ここに彼女の性格、強いコントロール欲がにじんでいる、と言えるのではないか。

 加えて彼女は理想主義者であったのだと思います。

 だから、天皇を、血脈でつなぐのでなく、天の認める徳を持つ者が継ぐべきとする中国由来の「天命」思想にのっとって、非皇族の道鏡を皇位につけようとした……。非皇族でありながら、即位資格のある皇后となった光明子の娘である彼女が、そうした理想の天皇像を思い描いたとしても不思議ではありません。

『続日本紀』からうかがえる彼女の性格は潔癖症に近い印象で、皇太子だった道祖王を廃したのは、彼が亡き聖武の諒闇(喪)中に侍童と通じたり、機密を漏らしたりしながら、反省もしなかったから。同時に、不孝の者らを陸奥や出羽に流して矯正するよう命じています(※9)。

 いずれにしても光明皇后・孝謙称徳母娘が、自分たちに近い時代の先進国の女帝をこれほどまでに手本にしていたというのは、彼女たちに武則天への悪いイメージは薄いからでしょう。伝えられる武則天の悪事には後世の男尊女卑の書き手のでっち上げも混じっていると思うゆえんです。もちろん女の身で最高位に立つという「立場」が類似していたからでもありますが、そこに至る母親の権勢欲やプレッシャーという「境遇」に共感を覚えたことも手伝っているに違いありません。

 女子初というのは、ただでさえいろんなプレッシャーがある中、彼女たちの「初」は、ちょっとスケールが違いますからね……国内の例では、救いにならなかったのでしょう。

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