鬱になった天皇妃 藤原不比等と宮子

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親の道具にされた娘

 今も皇室に入るというのは相当なストレスであることは、雅子皇后が長いこと適応障害に苦しまれたのを見ても察することができます。まして1300年もの昔では適切な治療を受けることもできず、36年間も我が子に会うこともままならぬまま、生きざるを得なかった……。宮子はどんな思いで36年という長いあいだ、人生でいちばん輝かしいはずの壮年期を過ごしたのか。宮子にのしかかったストレスの大きさを思うと、目頭が熱くなります(こういう病んだ母をもった聖武天皇も、思えばつらいことだったでしょう)。

 宮子の気持ちも考えず、己の権勢欲のため、政治のコマとして彼女の人生を奪った不比等は、今で言うなら紛れもない毒親です。

 不比等がいかに権勢を意識していたかは、結婚相手を見ても分かることで、最初の正妻は名門・蘇我氏のお嬢様の娼子、次はやり手の県犬養橘三千代です。

 もちろんそこには恋愛感情もあったかもしれない。けれど、とくに橘三千代との結婚は「夫不比等の政治基盤を固め」(※4)たと言われるほど、彼に利益をもたらしました。

 また、系図を作ってみると、蘇我娼子は、持統の母の蘇我遠智娘(や元明の母の蘇我姪娘)のいとこに当たることが分かります〈系図2〉。

 不比等は、持統の母のいとこを妻にしていたわけで、娼子との結婚時期は分からぬものの、長男の武智麻呂の誕生が680年ですから、679年ころでしょうか。このころすでに天武の皇后だった持統に、娼子を通じて近づこうという意図があったのではないか……。一方、県犬養橘三千代との結婚は娼子の死後と言われます。三千代は、持統の異母妹の阿陪皇女(草壁皇子妃。息子の文武死後、即位=元明天皇)に仕えていました。文武はこの阿陪皇女の息子。その後宮に娘の宮子を入れることができたのは「三千代の協力が欠かせなかったはずである」といいます(※4)。

 天智天皇の御落胤説もある不比等ですが(※5)、その真偽はともかく、御落胤が疑われるほどの急速な出世をしたことは確かで、それは功利的な結婚や、娘を犠牲にした政治戦略に負うところが大きかったと私は考えます。

 不比等と共に権勢を目指した妻はともかく、可哀想なのは道具にされた娘です。

 天皇家に入内した娘が、かなりつらい思いをしていたであろうことは、先にも挙げた平安中期の『うつほ物語』が伝えています。

 この物語では、天皇家に入内した“あて宮”が、父をこうなじっている。

「こうも世間から隔たった世界に据えられて、煩わしいことばかり耳にして、聞きたいような素晴らしいことは、誰も彼もお聞きになるのに私は聞けない。悩みがなく、思い通りのことを見聞きしてこそ理想でしょうに」(「楼の上 下」巻)

 彼女には熱心な求婚者たちがいて、その一人に彼女自身も心を寄せていたのです。そのためこんなふうに言って泣いたこともあります。

「つらすぎる。私のことを好きだった人と結婚すべきだったのに」(「国譲 上」巻)

 それもこれも、

「本人が物凄く嫌がったのに、朝廷も親も躍起になって無理強いしたから」(「国譲 上」巻)

 と、父親は言います。

『うつほ物語』はフィクションですが、現実にこうした女性がいたからこそ物語にも描かれているのです。

 この手の娘たちの苦悩については、回を改めて詳しく触れますが、宮子はこのあて宮のように自分の感情をぶつけることもかなわず、病に沈んでいったのでしょう。

※1 エリオット・レイトン『親を殺した子供たち』(木村博江訳、草思社)
※2 『宮子姫伝記』
※3 『うつほ物語』「内侍のかみ」巻
※4 義江明子『県犬養橘三千代』(吉川弘文館)
※5 『大鏡』「藤原氏物語」

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。

2020年6月5日掲載

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