鬱になった天皇妃 藤原不比等と宮子

大塚ひかり 毒親の日本史 国内 社会 2020年6月5日掲載

  • ブックマーク

 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ~んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第5回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!

藤原氏出身で、初めて天皇となる皇子を生んだ宮子の悲劇

 エリオット・レイトンによると、極端な階級移動は、「上昇するにせよ下降するにせよ」大きな不安を生み、差別や虐待につながることが、多くの研究で実証されています(※1)。

 その伝でいくと、奈良時代の藤原氏などは急速な成り上がりを遂げたと言えますが……彼らは「にわか成金」では終わらず、一つ一つ地歩を固め、天皇家の外戚として長く盤石の地位を築くことになります。

 その大きな最初の一歩が、645年の乙巳の変です。この時、歴史上に彗星の如く現れた中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は、中大兄とタッグを組むことで蘇我氏を凋落させ、皇太子の座を射止めた中大兄をバックアップすることで権力の中枢に近づきます。それでもなお、天皇家に娘を入内させるには及ばず、天皇だけが愛せるはずの采女・安見児〈やすみこ〉を賜って妻を通じたつながりを得たに過ぎませんでした。即位した中大兄(天智天皇)の皇后は、蘇我氏を母に持つ古人大兄皇子の娘・倭姫王〈やまとひめのおほきみ〉だったし、後宮で仕える嬪〈みめ〉は蘇我氏や阿倍氏でした。宮人と呼ばれる下位の妻にも藤原氏は食い込むことはできなかったのです。

 ちなみに当時の天皇妃のランクは、上から皇后→妃→夫人〈ぶにん〉→嬪で、宮人はさらに下の位置づけです。

 藤原氏が娘を天皇家に入内させられるようになったのは、天智の弟・天武の代になってから。

 それも『日本書紀』の序列は、(1)皇后のう(へんが盧でつくりが鳥)野讃良皇女〈うののさららのひめみこ〉(のちの持統天皇)、(2)彼女に先立ち妃となっていた姉の大田皇女(天武即位当時、故人)、(3)二人の異母姉妹で妃の大江皇女、(4)彼女らの異母姉妹で妃の新田部皇女。これら4人の天智皇女の下の夫人として(5)に初めて鎌足の娘・氷上娘と、(6)その妹の五百重娘が現れます。(7)は蘇我赤兄の娘・おほぬのいらつめ(漢字は系図1を参照)で、同じく夫人。天智朝の後宮にはおほぬのいらつめの姉妹の常陸娘が入っていたのに、鎌足の娘は入っていなかったのに比べると、天武朝では大いに躍進したと言えます〈系図1〉。

 こうして天武天皇に初めて娘を入内させることができた藤原氏ですが、生まれた皇子(新田部皇子)が即位するまでには至りません。藤原氏腹の皇子が即位するのは、持統の孫の文武の子・聖武天皇に至ってからです〈系図2〉。

 それもかなり無理な綱渡りを経ての即位というか、そもそも即位せぬまま死んでしまった草壁皇子の子の文武が即位することに無理があって、執政をしていた高市皇子の死後、持統(原文は“皇太后”)が王たちを集め、“日嗣”(皇太子)を立てることを相談する。けれど、皆の議論が紛糾し、なかなか意見がまとまらぬ様が、『懐風藻』には記されています。持統は子の草壁死後、皇太子を定めず、高市皇子を太政大臣にして政務を執らせていました。しかも『懐風藻』のこのくだりでは、持統が皇太后と呼ばれていることから、彼女の即位はなく、高市皇子が天皇だったという説もあります。

 この時、大友皇子の子の葛野王が、兄弟相続ではなく、子孫相続を主張したため、文武(当時は軽皇子)が皇太子になることが決まったのですが、天武の遺児もまだ存命中の当時、文武の立太子や即位がすんなりとはいかなかったことを物語っています。

 この文武に、鎌足の息子・不比等の娘・宮子(?~754)が入内します。

 宮子の母は賀茂比売ですが、道成寺に残る伝説(※2)によると、宮子は紀伊国の漁村の生まれで、髪の美しさが都人の目にとまり、不比等の養女となって、後宮に入ったといいます。

 そのあたりの真偽は不明ですが、彼女の生んだ首皇子〈おびとのみこ〉が藤原氏腹初の皇太子となり、聖武天皇となります。平安中期くらいまでは、天皇家に入内するのすら厭う“ふるめきの族〈ぞう〉”(古い一族)というのがあったようですから(※3)、まして奈良初期には、必ずしも天皇家に入ることが万々歳ではないにしても、新興氏族の藤原氏にとって、そこに食い込み、生まれた皇子を即位させるというのは、権力を得るためのパスポート、悲願だったに違いありません。

 が、入内させられる宮子にしてみれば、戦国時代の朝日姫(豊臣秀吉の妹で、農民出身の夫がいたにもかかわらず、兄に離婚させられ、徳川家康と結婚させられた)のような戸惑いと悲しみを覚えたのではないか。

 というのも宮子は、藤原氏腹初の天皇となる聖武を出産後、鬱状態となって、次に我が子に会うことができたのは、なんと聖武が37歳になってからだったのです。その様を『続日本紀』はこう伝えています。

「皇太夫人(藤原宮子)は鬱状態に沈み、長いあいだ人間らしい活動ができなくなったため、天皇をお生みになって以来、かつて一度もお会いにならなかった」(天平九年十二月二十七日条)

 それが、僧正の玄ぼう(へんが日でつくりが方)法師が一度看病しただけで、目が覚めたように正常になった、というのです。

次ページ:親の道具にされた娘

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]