毒々しい母には虚弱な息子?――持統天皇と草壁皇子

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毒親育ち?の草壁皇子の早逝

 そんな持統は、一人息子の草壁に大きな期待を寄せていたものの、先に触れたように草壁は、689年、28歳の若さで死んでしまいます。

 死因は不明で、『日本書紀』の死亡記事も、

「十三日に、皇太子草壁皇子尊が薨去された」(持統天皇三年四月十三日条)

 と、実にあっさりしたものです。

 これは、謀叛人であるにもかかわらず、大津皇子の死亡記事が、

「立ち居振る舞いは気高く、弁舌爽やか。(伯父であり母方祖父でもある)天智天皇に愛された。成人すると分別に富み、学識に優れ、とくに文筆を好まれた。詩賦の興隆は大津から始まった」 (朱鳥元年十月三日条)

 と、容姿人格の素晴らしさや功績が記されているのと対照的です。

 現政権に有利なことが描かれているはずの『日本書紀』でさえこの調子です。

 漢詩集の『懐風藻』でも大津は伝記に加え、4首の漢詩が収められるのに対し(大友も伝記と2首所収)、草壁は採るべき漢詩もなかったのか、一つもありません。

『万葉集』(771年ころ)には、草壁の死を悼む柿本人麻呂や舎人らの歌が収められてはいるものの、人麻呂の歌は皇子が天下を治めていたら花のように繁栄していただろうといった草壁の皇位の正統性を追認するようなおべんちゃら的なものだし、舎人らの歌23首は皇子不在の宮殿や庭の寂しさばかりで、草壁の人柄を伝える歌が見事なまでに1首もない。ちなみに同じ人麻呂による挽歌でも、草壁死後、即位した持統のもとで太政大臣として政務を執っていた高市皇子へのそれは、高市の勇ましさや功績が連ねられています。

 要するに、草壁には特筆すべき長所も功績も何一つとしてなかったのです。

 28という享年の若さはあるものの、それを言うなら大友は25、大津は24の若さでした。

 唯一、草壁の横顔を彷彿させるのは『万葉集』に収められた草壁自身の和歌です。

 歌は、石川郎女を巡る大津との三角関係の状況下で詠まれています。大津皇子と石川郎女は相思相愛で、大津が、

「あなたを待って立ち続け、山のしずくに濡れてしまった、山のしずくに」(“あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに”)巻第二・107

 と詠むと、郎女は、

「私を待って、あなたが濡れた山のしずくに、なれたらいいのに」(“我<あ>を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを”)巻第二・108

 と答えるほどラブラブなのに対し、草壁皇子の歌には郎女は返歌をしなかったのか、歌は残されていません。

 性=政であった古代、政治闘争は三角関係によって表されることが多いものです。これらの歌も大津と草壁が政敵であるため、このように配列・構成されたものかもしれません。つまり別の時期に詠まれたものを、三角関係が浮き彫りになるように配列された可能性もあり?とは思うものの、歌も大津が上なら、女の心をつかんでいるのも大津。

 草壁が早死にしたのは、能力がないにもかかわらず、皇位継承の重荷を負わされ、母・持統の毒に当てられたから……そんなふうに思われるのです<系図2>。

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