毒々しい母には虚弱な息子?――持統天皇と草壁皇子

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吉野の盟約という脅し

 持統が毒親であると思うのは、継子の大津を死に追いやったり、凡庸な我が子・草壁を皇位につけようとしたり……というだけでなく、子や孫へのコントロールの強さゆえです。

 スーザン・フォワードの『毒になる親』によれば毒親の特徴は子への強いコントロールが持続することにあり、持統にもそのにおいを感じます。

 即位年齢が若くて30歳頃だった当時、年少の子や孫をバックアップするのは当然と思われるかもしれません。

 けれど、持統以前の天皇(大王)は、子や孫がその年に満たなければ、兄弟や正妻(皇后)に皇統を相続させるなどし、我が子や孫に無理に皇統をつなぐことはしなかった。それを持統は、草壁死後は皇太子を定めず、継子の高市皇子を太政大臣にして実務を執らせます。そして6年後、高市皇子が死ぬと、天武の遺児たちが残る中、即位の根拠の薄い孫の軽皇子(683~707。のちの文武天皇)を15歳という異例の若さで即位させるべく生前譲位するのです。即位の根拠が薄いというのは、軽の父・草壁が即位しないまま死んでいるから。この時の紛糾ぶりについては『懐風藻』に詳しく、持統は“皇太后”と記されることなどから、実は即位はしておらず、高市皇子が天皇だったという説もあるほどです。一般的には、高市皇子は「天皇大権の代行者としての身分が考えられる」(※6)とされています。

 こうして孫を即位させて退位した持統は、もともとは退位した天皇の称号に過ぎなかった太上天皇に、天皇と同等の地位を持つことを律令に規定、自身も力を得ることで天皇をバックアップします。生前譲位はやはり女帝の皇極が同母弟の孝徳に譲位した先例があるものの、これは乙巳の変という非常事態があってのことで、太上天皇による執政は持統が初めて。それもこれも自分の血を引く子孫に、自分の目の黒いうちに皇統をつなぎたい一心からです。

 その器量もないのに期待をかけられる子や孫にすれば重荷に違いないし、未熟な天皇を熟練の太上天皇が後見するという先例は、天皇権力の形骸化にもつながります。実際、藤原不比等の協力を得た持統以後、天皇家の外戚として藤原氏は権勢を増すことになります。が、そうした犠牲を払ってもなお草壁の血を継ぐ孫に皇統をつなげたかったのです。あるいは持統自身が権勢を握りたかったという可能性もあるでしょう。百人一首にも採られた持統の、

“春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天の香具山”(『万葉集』巻第一・28。※7)

 は、そんな持統の強い権勢欲の現れではないかと私は見ています。

『日本書紀』には、東征した神武天皇が、すでに支配者のいた大和を攻めあぐねていた時、夢の告げに従って香具山の土を盗み、その土で土器80枚を作って敵を呪詛したところ、大和を制覇できたとあります(※8)。香具山の土は大和国そのものを象徴する。この香具山が見える位置というのは、夫・天武といた吉野や飛鳥浄御原宮などではなく、自身が遷都した藤原宮からでしかあり得ません。つまりこの歌は、持統が藤原京から香具山を眺め、「私の香具山、私の国が見える」と、やっと自分のものになった国を眺めて満足している歌であるというのが私の解釈です。

 そんな権勢欲の強い彼女の毒ぶりを思わせる一つに「吉野の盟約」があります。

 吉野の盟約とは、壬申の乱から7年後の679年5月、天武と、その即位と共に皇后になった持統が、持統腹の草壁、草壁と腹違いの大津、高市、忍壁と、持統の父である天智の子の川島、施基の計6皇子を吉野宮に集め、異腹・同腹を問わず結束することを誓わせた盟約です<系図2>。

 この文言がなかなかに恐ろしいのです。

「天つ神と国つ神と天皇よ、お聞き下さい。我々兄弟、長幼合わせて十人余りの王は、おのおの別の母の腹から生まれました。けれど同腹・異腹を問わず、共に天皇のおことばに従い、助け合って、逆らいません。もしも今後、この盟約に背けば、命を失い、子孫は絶えるでしょう。忘れません。違反しません」 (『日本書紀』天武天皇八年五月六日条)

 これを草壁から順に、他の5皇子も次々誓わされるんですから、はっきり言って脅しにしか見えない。

 とくに「この盟約に背けば、命を失い、子孫は絶えるでしょう」というくだりが怖い。

 まぁ私が大学で習った中世の起請文(神前での誓い事)なんかも、「この誓いに背けば、白癩・黒癩の病に冒されるであろう」といった神罰が末尾に記されるのが常で、誓いというのは破った時の罰則がつきものです。つまりは脅しなんですが、吉野の盟約は日本での、この手の怖い誓いの最古の部類に入るんじゃないでしょうか。

 もちろん、ここには、それまであいまいだった皇位継承の基準をはっきりさせることで、二度と壬申の乱のような大乱を起こすまいという強い決意がある。それまでは、兄弟相続と親子相続が併存し、親子相続にしても腹ごとに“大兄”と呼ばれる年長の候補者がいる上、豪族の合議が大きな力を持っていたため、皇位継承争いが絶えませんでした。それを草壁を代表者とすることで、父子相続で、かつ年齢よりも母の身分を重視するという方向性を示したわけです。

“腹”を強調しているのもこの誓いの特徴です。

 前近代、とくに母系的な要素の強かった古代では、同じ父の子でも、どの母の子かによって地位や立場が違ってくる。腹が違えば他人同然、むしろ「父方の親族は王位を争ういわばライバル同士」で、「母方の親族こそが我がミウチ」(※9)でした。

 そんな中、草壁らは生まれた腹を問わず、結束することを誓わされた。天皇もまた、

「我が息子たちはそれぞれ別の腹から生まれている。けれどこれからは同母兄弟のように慈しもう」

 と誓い、6人の皇子を抱きながら、

「もしこの誓いを破れば、たちどころに我が身は亡びよう」

 と誓います。そして皇后もまた天皇と同様の誓いをするのです。

 この誓いは間違いなく皇后(持統)の発案でしょう。

 天武にとっては大津はもちろん、草壁や大津より劣り腹ながら、壬申の乱で活躍した第一皇子の高市も、我が子です。

 草壁を筆頭にしてメリットがあるのは皇后ですし、『日本書紀』には壬申の乱も天武と皇后が“与<とも>に謀<はかりこと>を定む”(※10)とあることからして、また異様なまでに“腹”を強調していることからしても、すべては持統を中心に据えた誓いだったのではないか。天武を含め、皇子たちはそのコントロール下にあったと考えます。

※1 明治期、弘文天皇と諡号。即位説もある。
※2 中西進『古代史で楽しむ万葉集』(角川ソフィア文庫)
※3 倉本一宏『壬申の乱』(吉川弘文館)など。
※4 新編日本古典文学全集『日本書紀』3(小学館) 頭注
※5 『藤氏家伝』鎌足伝
※6 新編日本古典文学全集『日本書紀』3 頭注
※7 百人一首では“夏来にけらし”“衣ほすてふ”と伝聞形になっている。
※8 『日本書紀』神武天皇即位前紀
※9 水谷千秋『謎の大王 継体天皇』(文春新書)
※10 『日本書紀』持統天皇称制前紀

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。

2020年5月15日掲載

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